かなしみとうつくしさが酷似していることを知ったのはいつだったか。それを味わった時の私はもうとっくに遠い過去の生き物となり、それでも死なずに体の内側で呼吸をしている。

 丑嶋馨という男はかなしい、だから彼はうつくしい。へやのソファに腰かけて低いヴォリウムで鼻唄をうたいながら、ぽちぽちとゲームをしているうしろ姿、かたちのよい黒い頭。へや全体は照度を抑えられた明かりで覆われていて、時折り兎たちが動くかさかさとした乾いた音が耳に届く。
 リビングのドアのところで、そのさまをみつめている。彼は私の存在に気づいているけれど、こちらを見やるわけでも声をかけるわけでもない、あくまで自分はゲームに集中しているというていを崩さない。私は、だから、遠慮なく彼を見つめることができる。へたに振り返ってなどくれなくたってよいのだ。
 彼のへやは恒常的に片づけられており、だから私が「馨ってばほんとだらしないんだから~」などと言って掃除をし始める押し掛け女房のような真似をしなくていいし、食事も外で済ませるか自分で何かしらを作って勝手に食べる。偶に私も誘われて、オフィス近くの居酒屋で夕食を共にする。冷えたビールと焼き鳥、じゃこをたっぷりと載せたサラダ、厚焼き卵。
 私はあすこの厚焼き卵がとてもすきで、丑嶋はそれを知っていて、何も言わなくても注文をしてくれている。トイレから戻って椅子に坐ると、従業員のおばちゃんが「おかえりぃ」と笑って私の前に焼きたての厚焼き卵を置いてくれた時は、ちょっと感動した。ちょっと感動して、隣に坐っている丑嶋を横目で見やった。彼はこちらに一瞥もくれず、もぐもぐと鶏肉を咀嚼していた。その、上下に動く顎のかたちが、子どものようで、ひどく可愛かった。
「お風呂ありがと」
 私がエビアンのペットボトルを飲みながら丑嶋が掛けているソファに近づいて言うと、彼は一瞬だけちらとこちらを見、「おう」と、言った。それからすぐにゲーム画面に視線を落とす。
 きょうも仕事上がりにふたりで飲みに行って、自宅に戻るのが唐突に厭になり、私の家に比べればオフィスに近い丑嶋の家に泊まらせてもらうことにした。これはよくあることで、丑嶋はそのことにたいしてさほど気にも留めず、いつも通りの気ままな夜を過ごしている。
「暗くないの」
 ゲーム画面の点滅が時折り、丑嶋の顔に陰影をこしらえる。私はゲームをしないから、丑嶋がしているといってその面白さはすこしもわからないしわかろうと努力する気もない。私はゲームをしない、彼はゲームをする。それだけのこと。
「ああ」
 彼の声はあくまで低く、平らかだ。これは彼がリラックスしている証拠で、だから私はその事実にすこしだけ安堵をする。
 私は、ここにいてもいいのだと思える。
「面白いのそれ」
「あ? 何が」
 あ、やっとこっち見た。ほの暗いへやのなか、丑嶋のまなこが照明の色を反射させる。それ、と、私は顎で彼の手もとを指し示す。
「……べつに」
 彼の手にはいささか小さすぎる気がしないでもない携帯ゲーム機の中で、さらにちいさな――豆粒みたいな――キャラクタが緑色の地面をあっちに行きこっちに行きしている。端から見るだけでも頭が痛くなりそうで、私はソファから降りて、足もとにすり寄ってきた丑嶋の愛兎とスキンシップを取ることにした。
「うー子、うーたん、うー助……」
「そいつ、うー三郎」
「あ、そうか。ごめん」
 うー子とうー三郎の区別が未だにつかない。長年飼って毎日顔を見ていれば、そのうちわかってくるのだろうけれど、私は毎日このへやに来るわけじゃないし彼ほど兎に精通していない。そこまでの愛情も、たぶん、ない。彼が飼っている生き物だから、可愛いと思う。それだけのことだ。
 けれど、臆病者のうー子が額を私の臑に擦りつけてくるので、歓迎されていないわけではないのだと勝手に思っている。兎は元来おとなしく、臆病な生き物だ。馴れない人間にたいしては警戒心を丸出しにしてけっして寄ってこない。こちらから手を伸ばせば素早く逃げていく。反面、心を開いた存在にはひどく懐いて、あまえてくる。
「うー子、うーたん、うー三郎、うー助、うさこ……」
 一羽一羽、名前をとなえているうちに私の周りは兎だらけになってしまう。彼ら彼女らの頭、顎の下を指先で撫でる。ふわふわとした毛、皮膚が薄いためにその下にある頭蓋のかたちが直にわかる。すこしでもちからをこめればたやすく壊れてしまいそうで、私はだから、どちらかといえばこの手の小動物は苦手だった。

「んー……?」
 唐突に名前を呼ばれ、私は兎たちに視線を落としたまま低い声で応えた。いつの間にか、ゲーム機のボタンを押すカチカチ音が消えている。
「お前きょうどこで寝ンの」
 私は普段丑嶋の家に泊まる時とおなじくして、リビングの床を考えていたから、その質問にはすこしばかり驚いた。背後を振り仰げば、丑嶋の視線をまともにぶつかる。
「……ここ?」
「兎まみれになっぞ」
「別に、いい。今さらだし」
 私の寝間着――ただのスウェット地の上下だ――は、疾うに兎の毛が張りついて、もはやリビングの床以外の選択肢はないものと思えた。
「俺のベッド使え」
「いいよ、寝間着毛だらけだよ?」
「そいつらは汚くねーから、いい」
「私が気にする」
 しかもそしたら、丑嶋、あんたはどこで寝るの。そう問えば、丑嶋は一瞬黙して、それから、
「俺は俺のベッドで寝る」
 と、無表情でのたまった。私は、思わず笑ってしまった。
「何笑ってンだよ」
「だって、何、一緒に寝るって?」
「しょうがねーだろ」
 何だ、しょうがねーって。何も、しょうがくなくねーよ。今までだって泊まるときは、リビングの床に簡易マットレスを敷いてもらって、兎まみれになって寝ていたのに、こいつは何を今さらそんなことを言っているのか。
 いっそう、じゃあセックスでもする? と問いたくなったが、さすがにやめておいた。代わりに、
「一緒に寝たら、丑嶋がオナニーできないじゃん」
「しねーよ」
「しないの?」
「……おまえ、ばかだな」
「まあね、ある程度はね、わかってる」
 私は、丑嶋の応答にすこしばかりショックを受けていたけれど、それをまるで悟られぬよう表情を繕って、へらへらと笑いながら、うー子を抱えて膝に載せた。
 ――オナニー、しないの。しないの、か。私で、ヌいてほしかったんだけど、しないか。そうか。
 僅かにでもアルコールが入っていて、風呂上がりの清潔で湿った温かい体で、ここにいるのだけど、彼の下半身はまるで反応しないらしい。
「なんだよ、つまんねー」
「……おまえが何なんだよ」
 呆れたようにため息をつかれる。彼にしてみれば、理解しがたい、理不尽な文句であったに違いない。すまない丑嶋、私、頭パーなんだわ。
 夜は、じわじわと染みこむように更けてゆく。眠らないといわれる新宿の、けれどここは郊外に位置するから、周辺は当り前に静かで、お互いに黙っているとまるで夜という檻に閉じこめられでもしたかのような錯覚をおぼえてしまう。
 ギ、とソファの軋む音がして、丑嶋が立ち上がったのを気配で知る。「風呂入ってくる」。そう言い残して、バスルームに消えていく。バスルームのドアが閉まる音、服を脱いでいく音。コックを捻り、流れ出てくるシャワーの湯。一つひとつが、絡まることなく、私の耳に入ってくる。快い刺激だった。
 膝の上で目を閉じて、リラックスしている様子のうー子の体温が、膝に気持ちいい。顎の下に指先を入れ、くすぐるようにして撫でていけば、やがて頭がゆっくりと落ち、私の膝に完全に預けられる。
 あの問答は結局、答えが出なかった。が、私はやはりここで兎まみれになって寝るのだろうし、丑嶋は自分のベッドルームで寝るのだろうし、たぶんオナニーもしないのだろう。
 ぱた、と上体を倒し、ラグの上に横になった。一瞬だけ兎が私から離れたが、すぐに戻って私の体にそのちいさな体を押しつけてくる。
 ため息を一つ、吐き出す。
 水を打ったような静けさの中、遠くのほうでパトカーのサイレンが鳴り響くのを、私の耳がとらえた。




初出:2016年6月30日