――緊急事態だ身を隠せ!

 グループLINEから届けられた丑嶋からのメッセージを読んで、咄嗟に踏み出しかけた脚を停めた。コンビニの自動ドアが開いて、私が店の外に出るのを待っているのを無視して、その場でじっとスマフォの画面をみつめる。小百合からの「おは~!」というのんきなメッセージ、昨夜一緒に飲んだらしい柄崎からのメッセージ、それらに律儀に返信して、それから間もなくのことだ。
 メッセージを二度、読み、私は弾かれたようにコンビニを出た。背中に自動ドアが閉まる際に流れるだらだらとした音楽が聞こえ、私の神経を逆なでした。愛車であるプジョーに乗りこんで、エンジンを吹かす。エンジンが温まりきらないうちにギアを入れると、プジョーは重たそうに動き出した。そのいかにも気だるげな愛車に、初めて憎しみを抱いた。

 何が起こったのか、丑嶋の身に何が起こっているのか、まるでわからない。誰が私の知りたい事を教えてくれるのかもわからない。ただ一つ、丑嶋からの命令は『身を隠せ!』だけだった。取り立てに出た直後の事だったから、廻る予定だった相手の元に今から行く事もできない。その苛立ちも、あった。
 とりあえず区内から離れたビジネスホテルにチェックインし、部屋に入ってすぐに仕事用の携帯で先方に電話を入れる。
「もしもし」
『……あ、借金取りの人?』
「そう。借金取りの人」
 四十半ば、無職、生保受給で生活をしているパチスロ狂の男は、寝起きと思われる掠れた声で不躾な事を言った。備えつけのキッチンで湯を沸かしながら、私は手短に言った。
「今日返済の日だから。正午までにちゃんと振りこんでてね」
『……ちょっと待ってもらう事できない?』
「できない」
『えーっ、俺昨日から何にも食べてないンだよ何にも買えないから何にも食べてないンだって』
「無理。決まりだから」
 じゃ、よろしく。フラットな調子で放ち、通話を切る。すぐにもう一件にもおなじような内容の連絡を入れる。三十代前半、風俗嬢。っていうか違法店で働くデリヘル嬢。こっちは最初の男よりもスムーズで、やっぱり女のほうがしたたかだなと、棚に入っていた不味い珈琲を飲みながら思った。
 通話を切ると、ソファに腰を落ちつけて煙草を咥えた。
 ――何が、起きてる?
 ふつふつと湧いてくる疑問と、それに付随した不安が頭を占めていく。
 落ち着かないまま、スマフォをタップしてLINEを開き、メッセージを入れる。
 『今区内ではないところのビジホにいます』
 何があったのか、という仔細を求めるメッセージは入れず、それだけをひとまず送る。それから、ちょっとだけ考えて、『無事です』とだけ追記した。すぐに既読が二件、つく。おそらくは高田と柄崎だ。丑嶋はおそらくまだ見ていない。あの人が今、どこにいるのか。無事なのかそうではないのか、わからないもどかしさが煙草を吸うペースを早くさせる。
 二本めの煙草を灰皿に押しつけ、三本めを咥え、再度スマフォを手に取って画面をタップする。
 『何か変化あればすぐに連絡ください』
 送信してから、虚無感が胸の奥に拡がった。
 きっと、私への連絡はないだろうという、確信があった。たとえばほんとうにマズい情況に丑嶋が置かれており、どうにもならなくなったとして、彼が私に詳細を話したり、相談したりしてくれる事はまずない。柄崎や戌亥にはある、彼らは頼りになる。今まで幼馴染みという関係から、ふざけて散々ばかにしたりばかにされたりしていた仲だったけれど、少なくとも私より彼らに優先して連絡をする。
 ジジッ、と煙草の先端が赤く燃え、薄く開いた唇から煙が吐き出される。
 私には硬く感じられるパーソナルチェアに膝を立てて深く坐り、スマフォをテーブルに放って天井に向かって煙を吐き出した。
 スマフォが振動し、柄崎からの『そのままそこにいろ!』というメッセージを受信した。それを、虚ろな目で見下ろし、私は画面の幕を下ろした。


 ・


 焼け焦げた廃工場から、人の匂いが漂ってくる。死んだ人間の匂いだ。葬儀場にオイルをぶちまけたらきっとこんな匂いがするに違いない。
 ゆっくりと深呼吸をし、何が起こったのか、その事実を探る事に思考を集中させた。
 事は思っていた以上に混みいっていて、複雑で、丑嶋の言葉を借りるならば、『相当にヤバい』情況だった。
「……ヤバい事くらい、見りゃわかる」
 独り言を呟いて、ハマーを探す。灯りのない工場は、けれどそれに馴れた目が徐々に風景を捉えていき、私の心拍数を上げていく。
「丑嶋、」
 気がつくと唇から名前が毀れていた。丑嶋、丑嶋、丑嶋。どこにいんの。何してんの。なんでひとっことも連絡くれないの。何があったのかぜんぜんわかんないよ。
 ぼろぼろと涙が毀れて、そんな自分がみっともなくて鬱陶しくて、厭になった。
「丑嶋」
 薄暗がりの中、彼の愛車は闇に紛れるようにして停まっていた。フロントガラスが割れている。酸素を求めて呼吸が速くなる。ひゅっ、と、咽の奥が鳴き声を上げる。
 その前に、丑嶋と柄崎がいた。私の影に気づいたらしい柄崎が、あっと声を上げて私を指差した。丑嶋もつられてこちらに視線を送る。

 彼が私の名を呼んだのを確かに聞いた。生きてる。生きてた。頬に血付いてるけど肩を抑えて顔を歪めてるけど、生きてる。彼は生きてる。安堵感で満たされ、脚の力が抜けてその場に坐りこんでしまった。
「おいっ」
 柄崎が駆け寄って来て、私の前にしゃがみこんだ。顔を覘きこまれ、「だいじょうぶかよお前?」と、心配そうな声が落ちてくる。柄崎に心配されるなんて心外だと思いつつ、涙が止まらなくて嗚咽しか洩らせない。その間隙に、よかった、よかった、生きてた、よかった――それだけを繰り返して、ばかみたいで、みっともなくて、でも止まらなかった。
「ぜったい来ンなつったろ」
 子どものように泣きじゃくる私の耳に、丑嶋の、呆れた声が聞こえた。
 そろと目を上げると、彼は痛そうに顔を歪めて私を見下ろしている。「ごめん」。嗚咽を洩らしながら、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、私は言った。
「どうやってここわかった」
「……戌亥に頼んだ。ここのことは高田に聞いた」
 あとは自分でめぼしいところ探しまくった。続けて言うと、彼は舌打ちをし、
「あのヤローども」
「でも私がしつこく訊いたから。二人は悪くないから」
 事実、戌亥も高田も、この場所がわかるようなことを言ったわけではなかった。ただ、事の顛末のさわりを聞き出したのは事実だった。とはいえ、彼らもまた詳細を知らなかったし、だから勝手に脳内で推測し、補完し、それらしい答えを導き出した。
 丑嶋は今、ケツ持ちだった猪背組と、飯匙倩とかいう蛇腹組の下っ端と揉めている。つねづねちょっかいを出してくる滑皮が丑嶋に何やら面倒な事を押しつけている。――私の知り得た情報は、ただのこれだけだった。飯匙倩とかいう男がそこそこ派手にやらかしているから助かったようなものだ。そうでなければ、今、丑嶋の居場所まで駆けつける事は出来なかった。
 はぁーっと大きく息を吐いて、坐りこんだ態で改めて丑嶋を見上げた。
「ごめんね」
 何もわからないのが厭だった。何も教えてくれないだろう事が、理解しつつも、腹が立った。今、彼が、どこで何をして、無事なのかそうじゃないのか、怪我をしているのかしていないのか、知りたかった。
 丑嶋はしばらくじっと私を見下ろした後、
「いーよ、別に」
 と、言った。
 いつもと違わぬ、ぶっきらぼうな口調に安心して、私はまたぼろぼろと泣いた。

 ハマーの冷たい座席に坐り、沈黙に身を委ねている。割れたフロントガラスの欠片が一片、落ちていたので、手持ち無沙汰に拾い上げてそれを見つめた。
「……
 低い声で彼が呼ぶので、視線だけをそちらに向けて、ん? と私はこたえた。
「俺と柄崎はこれから飛ぶ」
「……どこに?」
 何となく予想していた事だった。だからさほど驚かず、顔もあくまで無表情を張りつけて、言う。「どこに行くの」。
「まず沖縄。そっから台湾あたりか」
 きっと私が来なければ、二人は誰にも何も言わずに、荷物をまとめてガラをかわしていたのだろう。おそらく、現地に着いてから最低限の連絡は入れるだろうけれど、それまで私や高田や小百合には待機が命じられたまま。そう思うと無性に虚しく、かなしくなって、同時に、淡い怒りも、湧いた。
「……それがいいと思う」
 感情とは裏腹に、私は静かに呟いた。ああ、と、丑嶋もまた低い声でいう。
「それで二人が安全なら」
「タクシー呼ぶから、お前はそれ乗って帰れ」
「……うん」
 わかった。私は従順な子どものように頷き、ドアを開ける。夜気が頬を滑り、心だけではなくどこか無防備で落ち着かない体を通り過ぎていった。
 ハマーを降りると、手にしていた硝子の欠片を遠くに頬った。欠片は瞬く間もなく夜闇に溶け、すぐにどこに落ちたかわからなくなる。
 私は煙草を取り出して咥え、ライターを探したがポケットのどこにも見当たらない。丑嶋に借りようと思った時、気配がして、彼がハマーから降りてきた。頬についた血が、落ちきれずに僅かに付いている。
 彼もまた煙草を咥え、自分のライターで火をつけた。
「火」
 私は言った。「火、貸して」。
 丑嶋の顔が近づき、彼の咥えたままの煙草から火種が、私の咥えている煙草に移される。ジッ、と音がして、それから、青くさいメンソールの匂いが鼻腔を抜ける。
 ひとくち、煙を吸いこみ、そのまま、まるで当り前のように、丑嶋の唇にくちづけた。唇の端から洩れる煙が筋を作って昇る。
「帰って来るの」
 しばらく黙った後、訊きたかったことを一つ、訊いた。
「さぁな」
 彼の返答は、やはり予想してた通りで私は苦笑してしまう。やっぱりね、そういうと思った。
 私は、もう何も言わず、何も訊かず、黙って煙を吸っては吐いてを繰り返し、2/3まで短くなった煙草をつま先で消すと携帯灰皿に吸い殻を入れた。私がここにいたという証拠は、どこにもない。このまま、彼に言われた通り、ここからすこし歩いた先でタクシーに乗り、借りているビジネスホテルに帰る。彼と柄崎は、どこか遠くに行くのだという。私は、何も言わずにそれを見送る事しかできない。見送る以外に、できる事などない。
「じゃあ、私帰るよ」
 そう言って、丑嶋を見上げる。表情筋が鈍麻して、うまく笑えない。おそろしくおかしな顔をしている事が何となくわかる。「気をつけて」。
 くれぐれも、気をつけて。心からの言葉だった。何よりも、ただ無事でいてくれればそれでいいから。ほかはもう何も要らないから。
 行かないでとしがみついたり、自分も行くと駄々を捏ねるようなばか女にはなりたくなかった。だから、さっさと踵を返して来た路を引きかえす。その時に、腕を掴まれて振り向いた。丑嶋の硬い指が、手首に食いついて痛いくらいで、私はぎょっとしつつもされるがままに唇を受けとめる。柄崎に見えてる、と思ったけれど、まぁいいか、とも思った。どうせこれから先、柄崎はずっと丑嶋といられるのだし、今くらい丑嶋を独占させろよ。今くらい、あともうすこしだけ、こいつと一緒にいさせろよ。
「はっ、」
 唇を離した途端、何だか笑えてきて、私は丑嶋の服の裾を握りしめて額を彼の胸もとに押しつけて、笑った。泣く代わりに笑っているような感じだった。
「ほんとは最後に、もっとすけべなことしたかったなぁ」
 今生の別れではないと信じたいが、ほとんど今生の別れのようなものだ。そう思うと、当り前に、ひたすらにかなしかった。
「……帰ってきたらいくらでもしてやるよ」
 耳もとで彼がいうのを、はは、と笑って、けれど半分は本気で、受けとる。
 顔を上げると彼の顔があった。頬に血の痕。おそらくは誰かの、そして自分の血も、すこし。
「じゃァ、約束」
 最後にぎゅ、と、その大きな体を抱きしめ、私は彼から離れた。これ以上抱きついていると、どんどんと、離れられなくなりそうで、離れてからは、振り返らずに走った。
 ハマーのエンジン音が聞こえてくる。私の行き先と彼らの行き先は反対で、その音は私の背中をただ叩くだけだ。追ってはこないし、私も追う事は赦されない。
 走りながら、ぼたぼたと涙が出て止まらなかった。
 嗚咽が止まらず、抑えきれなくて声を上げて泣いた。
 ひと気のない道路に、私の声と私の涙だけが落ち、遠くのどこかから救急車とパトカーのサイレン音が聞こえてくる。ここに来るやつだろうか――思考して、通報されるにはまだ早いと結論づける。
 息が上がって来る、私は走る、丑嶋たちから遠く離れるために、私は走って、走って、走って、立ち止まった。
 冷たい夜の空を見上げて、止まらない涙がまた一筋、頬を滑ってアスファルトの地面に落ちた。




初出:2016年7月20日