ねえ丑嶋くんのどこがすきなの、
ぎゃくに丑嶋くんは、おまえのどこが、なにが、すきなのかな。
などと戌亥が訊くもんだから、私は一瞬、ぽかん、としてしまって、しばらく目をぱちくりとさせながら、えー、あー、などと意味のない声を発して、それからようやく「は、何て?」と、言った。
だからさ、と、戌亥はテーブルに置いていた私の煙草の箱を指先で弄びながら薄く笑った。居酒屋の安っぽい照明のオレンジと、ハイライトメンソールの緑。
「おまえは、丑嶋くんの何がよかったのかなって」
「ぜんぶ」
我ながらばかな返答をしているとわかっていた。ぜんぶ、と、戌亥は私の言葉をくちの中で反芻させる。
「ぜんぶが」私は半分ほど残ったぬるいビールをひと口呑みこみ、言う。「ぜんぶが、すき」
戌亥は自分の質問にたいして、満足のいく返事をもらえなかったことに露骨に不満げな表情をしてみせ、私の眉根に皺を作らせた。「不満そうだね」と私がいえば、「だってそんなの、ありえるの」などとのたまう。「ありえるよ」。私はビールを飲み干して、忙しそうに立ち働く店員のおネェちゃんの背中に向かって「生一つ追加で!」と叫んだ。
「、飲みすぎ。まだ丑嶋くん来てねーのに」
「いーじゃんべつに。あいつそーゆーの気にしないし」
先に呑んでろと言ったのは丑嶋だった。用終えたら行っから、と。この場合の用、というのは、要するにうさぎの世話だ。ケージを掃除し、糞を棄て、餌を与え、水を換え、必要な子にはマッサージをしてやり、毛玉取りのためのおやつを食べさせる。薬を飲ませなければならない子もいるかもしれない。頭を撫でたり顎下をくすぐったりしてスキンシップをとる。丑嶋にとっての日課であり、心安らぐ癒しの時間である。
一日のうちの僅かなプライベートを、邪魔してはいけない。と、私は頑なに守っていて、それは彼のことをよく知る戌亥もまたおなじだろう。とはいえ、邪魔しようとして邪魔できるほど、丑嶋はやわな男ではないのだが。
「なんで?」
おネェちゃんが持ってきてくれた生ビールのジョッキにくちをつけながら、私は質問返しをした。「なんで、そんなこときくの」と。
「べつに。ただの好奇心、で」
「……野暮」
「自覚してるさ」
戌亥はねぎまの串を手に取って前歯で肉を噛んだ。唇に鶏肉の油が滴り、ぬらぬらと光る。私は戌亥が玩んでいたハイライトの箱を奪うと一本を咥えて火をつける。居酒屋の喧騒の中、百円ライターの安っぽい音がやけに耳についた。
煙を吐き出しながら、「私、あんたのそーゆーとこ嫌いじゃないよ」とぼやけば、戌亥は薄く笑って、「それも知ってる」と言った。
「で、丑嶋くんはのどこがすきなのかな」
調子に乗った戌亥の質問はとどまらず、けれど流れで、あくまでこれは流れで、といったぐあいで、問う。
「うーん……どうなんだかね」
「そういう会話、しないんだ」
「しないね、まるでしない」
「一応、つき合ってンのにな」
「恋人たって私と丑嶋よ、ンな会話しねーよ」
たしかに、と、戌亥はからからと笑う。その、屈託のない笑顔がみょうに腹立たしくて、テーブルの下で戌亥の臑を蹴った。軽くではなく、それなりの勢いをこめて。いてーよと戌亥は言ったが、気にしない。
「でもたしかにな、おまえと丑嶋くんだもんな」
「納得されっとそれはそれでなんかムカつく」
「おまえもたいがい面倒くせーな」
戌亥のことばに、女だからね、と私は放った。女だから、これでも一応女だから。
「女なんて面倒な生き物よ、わかってっと思うけどさ。女の大半はみんな躁鬱病と思っていいから」
「暴言だな」
「でも実際そうじゃん、わかってンでしょ戌亥だって」
「まあそこそこは」
私はため息と紫煙を同時に吐き出して、立ち昇る濁った煙を仰いだ。照明に燻る紫煙をみつめ、ああそうか、と一つの答えを思いついた。
「私、世間の女よりかは安上がりかも」
「そうなの」
「たぶん。金はかかんないかな」
支給される給与はそこそこだが、生来の貧乏性が抜けないから振りこまれる金にはほとんど手をつけない。必要最低限の生活費――住宅費、すこしの食費、交通費、その程度を下ろし、それ以外は預金として銀行に取り残されている。節約しているわけでも、貯金をしているわけでもない。ただ、金の遣い方がわからない。それだけだ。金融屋に身を置いて、ばかみたいな額の金を毎日毎日見ているからか、金にたいしてすこし食傷気味なのか。
「ブランドものの何かを欲しがるわけでもないし高い飯を食うわけでもないし、そもそも私馨ちゃんに何かを奢ってもらったことってないかも。ゴムくらい?」
「それは……、まあ、そうね」
「べつに何も欲しくないンだよな。馨ちゃんも、物に執着しないし」
お似合いなんだな、と、戌亥は言った。冗談のようにも、心からのことばにも、聞こえた。どうでもいい、どっちでもいい。ほどよくアルコールが全身を巡り、頬が火照ってきている。短くなった煙草を灰皿に押しつけて消し、新しい煙草を咥える。殊勝なことに、戌亥がライターで火をつけてくれた。ホストか、おまえは。
「あんがと」
くちの端を持ち上げて笑う。照明の下で戌亥の眦が下がっている。
携帯がメール受信のメロディを刻み、戌亥が胸ポケットから取り出した携帯を開いた。丑嶋からのメールだった。見せてもらうと、もう着く、と、一言だけ書かれている。丑嶋らしい、簡潔でぶっきらぼうな文面。
「戌亥、馨ちゃん来っからこの話は終いね。なんか適当な世間話しよう」
「了解。……は、居酒屋メニューで何がすき?」
「卵焼き。それもここ店員さんが卵焼き機で持ってきてくれンじゃん、それがいちばんすき。安いし」
「そうか。俺はねぎまかなあやっぱ、あ、ここけっこう刺し身系もイケるよな、居酒屋にしては新鮮で旨い」
どうでもいい世間話をしている二人の頭上に、淡い影が落ちた。見上げると丑嶋が、大儀そうな顔をして目の前に立っている。「お疲れ、丑嶋くん」。戌亥は私の隣の席に顎をしゃくって、坐ンなよ、と促した。丑嶋は黙ってそれに倣い、メニューも見ずに「生一つ」と店員に注文をした。
三人で他愛のない話をだらだらとし、酒を呑み、肴をつまみ、日付けが変わった頃に「じゃそろそろ帰ろうか」と戌亥が切り出して呑み会はお開きとなった。私は戌亥に呑みすぎだと言われてから頼んだ生を最後に酒はやめて、煙草ばかりふかしていたために咽がひどくいがらっぽく、席を立つきわにお冷を二杯ほど一気に飲んだ。アルコールで頭が完全にやられる前にやめるのは、むかしからの決まりごとである。自分の中だけの、だが。丑嶋もぱかぱか呑むほうではないし、戌亥は笊だしで、私たちは揃って千鳥足になるわけでもなく、暖簾をくぐって僅かに火照った身体を夜風に晒した。
「じゃァ、また」
戌亥はまるで何事もなかったかのように片手を挙げてさっさと踵を返してしまい、繁華街の闇に消えていく背中に向かってまたね、と私は軽く手を振って見送った。
斜め上からかすかなため息が聞こえ、「どしたの」と私は丑嶋を見上げる。腹が減っていたのか酒よりも肴のほうに夢中だった丑嶋の表情には、ほとんど酔った様子はない。
「なんでもねぇ」
俺らも帰ンぞ、と、背中を向けざまに私の腕を取り、のそのそとした動作で歩きだす。私はパンプスのヒールを鳴らして彼の隣に歩み寄る。
「なに、機嫌悪いの」
言及すると、
「べつに」
と、あからさまに不機嫌な声が落ちて、悪いんじゃんよ、と私は呟いた。
繁華街の喧騒を、丑嶋と並んで歩けばキャッチされないしみょうなスカウトにも捕まらないし安っぽいワルにも絡まれないから便利だ。便利、という表現がとても失礼であることは承知しているが、便利だ、以外に的確な表現がわからない。心強い? たのもしい? それもそうだが私は一人でもキャッチをスルーできるしスカウトも断れる、安っぽい悪そうなの一人二人なら相手にできる。だてに金融屋で働いていない。しかし、女一人で歩くより、丑嶋と一緒に歩くほうが、安心はする。便利さ以上に、安心感が違う。
「」
繁華街をあともうすこしで抜ける、といったところで、丑嶋がにわかに言った。なに、と上目で見やれば、彼はぞっとするくらいの熱を孕んだ目つきで私を見ていた。
「なに」
思わず怯んでしまう自分を情けなく思うと同時に、すわ、さては嫉妬か、と淡い期待が胸に滲む。
「戌亥によけーなこと言ってねーだろな」
「……なに、よけーなことって」
珍しく、幼稚な嫉妬心をむきだしにしてことばを紡ぐ丑嶋を、可愛いと、私は思う。「なんも、言ってないよ」。そして私は嘘をつく。
「ふーん」
「疑ってんの?」
「いや。おまえがそーゆんなら、そーなんだろ」
いやいや疑ってんじゃん、おもっきし疑ってンじゃん! そう思ったが、くちにはしないで心中でほくそ笑む。自分のために、心を乱している丑嶋がひどく愛おしく感じて仕方がなかった。掴まれたままだった腕を振りほどき、代わりに手を繋ぐ。丑嶋は拒絶しなかった。大きく、皮膚の厚い手のひらは僅かに湿っていて、熱い。
アーケードを抜けたところでタクシーを拾い、丑嶋は自分の家に向かうよう運転手に告げる。私の家はスルーされている。「泊ってくんだろ」と、まるで当り前のようにいうので、「あー、うん」と、私もまた当り前のように、返事をした。
「馨ちゃん、」
戌亥との会話を、暴露してしまいたくなった。「ごめん私嘘ついた」。
繁華街のネオンを頬に受け、丑嶋はちらと私を見た。
「戌亥がさあ、おまえは馨ちゃんのどこがすきなのってきくから、ぜんぶって答えた」
「あほなこと訊くな相変わらず」
「ほんとにな。あと、馨ちゃんは私のどこがすきなのかね、とか」
「ふーん。おまえなんて答えたわけ」
「“コストがかからないから”」
丑嶋は一瞬、はあ? とまぬけな声を発して、なにそれ、と、言った。
「金はかかんないでしょ私」
「まあ、な」
「あと今思ったことだけどさぁ」私はフロントガラスの向こうの夜の街を見据えて、くちを開く。「かりに馨ちゃんが私を失っても、リスクがすくない」
もしも、私が丑嶋に恨みを買っている何ものかに拉致られて拷問されたとしても、私は丑嶋に火の粉が振りかかるようなへまはしない自信があった。何があろうと彼を売らないと心に決めている。たとえ拉致られ犯され殺されても。――そういった意味で、私はローリスクな女だ。
持論を展開する私の顔を、丑嶋は無表情で眺めていた。タクシーは澱みなく夜の街を走り、やがて丑嶋のマンション近くのコンビニで停まった。セキュリティの問題で、家の前まではけっしてつけさせない。代金を払い、私と丑嶋はタクシーを降りる。都会の風が足もとを浚っていく。四月の夜はまだ寒い。私は着ていたブルゾンのポケットに両手を突っこみ、さむ、と首を竦めた。
コンビニからマンションまでの僅かな距離を、並んで歩いた。風呂に入りたかった。丑嶋の愛兎にも久々に会いたかった。セックスはべつにしてもしなくてもよかったが、一緒の布団で眠りたくはあった。
マンションの手前の赤信号で立ち止まる。人通りも車通りもすっかりなくなった交差点で、けれど私たちは律儀に信号を守る。
「おまえさ、」
ふいに頭上から声がかかった。ぽんと丑嶋の手のひらが私の頭に載る。重たい。あたたかい。大きな、手。
「おまえは、もっと価値あるよ」
「……は?」
どういう意味、と訊こうとした時、信号が青に変わり、丑嶋は私の腕を引いて歩きだす。黒いパーカーにおおわれた背中は無言を貫く。何それどういう意味さ馨ちゃん、どう受け取りゃいいの私。心中で吐き出したい疑問をついぞくちにだせないまま、マンションのエントランスに到着し、部屋番号を押してロックを解除する。エレベータに乗る。
「……私、馨ちゃんが思うほどそんな価値ないよ」
上手い表現が見つからないまま、ようやくそれだけを告げる。値段つけたらいくらにもならんよ。だから安心しなよ。そういった意味をこめて。
そーかよ、と、あくびを噛み殺しながら丑嶋は言った。エレベータは音もなく、私たちを階上へと押し上げていく。
「おまえと俺の価値観、違ぇーんだな」
チン、と音が鳴り、丑嶋のへやがある階でエレベータは止まった。腕を掴まれつづけるのも癪で、また手を繋ぐかたちに戻す。ぎゅうと握ると、強く握り返された。子どもどうしがする、それのような幼稚さが、けれど私にはひどく心地好かった。
初出:2016年4月19日