身じろぎをした時に他人の体温を感じて薄目を開ける。夢とうつつのあわいを漂っていた意識がにわかに浮上し、そろそろと現実の戸が開かれる。カーテン越しに往来の明るさが滲み、朝だ、と、私は大きなあくびをこぼし、寝返りをうつと傍らで眠る丑嶋にフォーカスを合わせた。普段は鋭いまなこも、今は薄い瞼によって隠されている。すっと通った鼻筋に、すこしばかり先のとがった上唇。顎髭を生やしているわりに体毛は薄いようで、眉毛も睫毛もさほどゆたかではない。さほどゆたかではないからこそ、顎髭を生やしているのか? 自分の“雄”を誇示するために?――男の心理は、心身ともに女である私にはわからない。十代の頃から数えてずいぶんと長く男社会に身を置いているが、ついぞ理解することはできなかったし、これからも理解できる自身もないし、するつもりもない。どうでもいい――それが私の辿り着いた結論である。
「かおるちゃん」
 耳に届けるつもりのないヴォリウムで名を呼び、頬に指を滑らせると、丑嶋は「ん」と咽奥で声を洩らし、瞼が微かに震えた。起こしたいのか、起こしたくないのか、自分でもわからない。男心もわからないが、女心もわからない。私は女であるけれど、女自身も女の心理の深いところはわからない、要するに自分のことがわからない。
 瞼は震えただけで持ちあがることはなく、すこしの安堵と寂寞とを同時におぼえる。アァ面倒くさい! 心中で自らにつっこみを入れる。こんなの柄じゃない、ぜんっぜん柄じゃない。

 恋愛、という可愛い経験を経ずに大人になってしまったのだということを、今さらながらに自覚する。私は男を丑嶋しか知らない。幼い頃から、丑嶋以外の男を男として見ていなかった。同級生の男子はただ女にないものが股についている生き物、くらいにしか思えず、それを“男”というカテゴリに分類することに異和を感じていた。同級の女子が、クラスの誰誰が恰好いい、とか、あの子のことがすき、とかいうのを、宇宙人を見るような目で眺めていた。
「かおるちゃん以外の男子は“男”じゃないね」
 小学校からの帰り道、拾った木の枝で電信柱や人の家の壁をばしばしと叩きながら歩く丑嶋の背中について歩きながら碧はぼやいた。
「私、たぶん一生かおるちゃん以外の男を男として見れないと思う」
 丑嶋は振り返ることなく歩きつづけ、「ふーん」と、私の告白に興味のなさそうな返事をするだけだった。
 頼むからこっち向くなよ、と、私は私とおなじくらいのちいさな背中を見て願う。こっちを振り返って、お前おれのことすきなの、とか、つきあう? とか、そういう阿呆なことを言ったりするなよ。間違っても、そんなこというなよ。
 私の願い通り――というか、想像の通り――、丑嶋はついぞ振り返らなかった。振り返らないまま、「じゃァな」と、いつも別れる道の端に木の枝を放り棄てた。
「ばいばい」
 私は丑嶋の背中に手を振る。丑嶋は片手を挙げて「おー」とだけ言った。

 ふる、と短い睫毛が震えて、丑嶋の眉根が微かに寄る。それから、そろそろと瞼が持ちあがる。まだ眠たそうな胡乱な視線が碧の黒い瞳を捉える。私は薄く笑って「おはよ」と言った。
「……おう」
 手のひらで顔を覆い、くぁ、とあくびをこぼす丑嶋を、やはりすきだと碧は思った。ほかに男を知らないということは、幸せなことだ。世の中には誰とでも寝る女が腐るほどいて、恋はするものよーあんたもどんどんしなさいよーなんて飲みに行った先で知らないビッチに絡まれたり、メディアも恋愛をテーマにした糞ドラマばかり流したがるが、私はずっとこいつしか見てなかったし、こいつしか見えていなかった。それでいい、これから先も、ずっとそれでいい。
 私はからだを起こし、ベッドから出る。フローリングの冷たさが足の裏に浸みこむ。おなじベッドで寝ても、セックスをしない男女の関係は異常なのだろうか。当り前に泊りに来て、当り前に一緒に眠る。そこに性的な何かがないことを、世間は訝しむようだが、私には逆にそれがわからなかった。
 丑嶋が望むならいくらでも差し出すつもりでいる身体だが、望まないのであればそれはそれで構わない。潔癖症の彼が躊躇いもなく私のベッドで寝てくれる――私にとってはそれだけで充分である。
「……腹減ったな」
 冷蔵庫からボルヴィックのペットボトルを取り出して寝室に戻ると、上体を起こした丑嶋がそう訴える。
「なんか食べ行く?」
 冷たく、清潔に砥がれた水を一口咽に流しこんで問うと、
「お前、なに食いたい?」
 質問で返された。
「え。肉」
「朝から肉かよ」
「いーじゃん。久々牛丼食べたい、松屋の」
「……じゃ、はやく支度しろ」
「あいよ」
 ペットボトルを丑嶋に押しつけて、私は浴室に向かった。仮にも会社の社長が日曜の朝からチェーン店の牛丼、自分でリクエストしておいて悪いが笑ってしまう。寝間着にしているシャツとスウェットパンツを脱ぎすてて、下着も外した裸体を洗面台の鏡に晒してみる。汗にも精液にも塗れていない白いからだ。丑嶋がこれを求める日が来るのか。来てもいいし、来なくてもいい。仮に来なかったとして、それでも丑嶋以外の誰かに差し出すつもりは毛頭ない。この美しいからだのまま、棺桶に入ろう。
 おそらくは世間的に頭のおかしい覚悟は、けれど私の中で疾うに凝り固まって溶ける様子をみせない。ふいに、宗教、ということばが脳裏に浮かぶ。
「かみさま、」
 呟いて、果たして想像したその姿が、今おなじへやの中にいるあまりにも身近な男に変わり、私はくっと唇の端を持ち上げた。


初出:2016年3月27日