丑嶋の愛車であるハマーのエンジン音が、シートを通して私の肌を震わせる。窓枠に肘を載せ、頬杖をついたていで流れてゆく夜の街を眺めた。戌亥の実家から車を走らせて十五分ほどが経ったが、その間私たちのあいだに会話はない。ラジオも掛かっていない――そもそも運転中に音楽を流すのを、丑嶋は嫌う――から、空気全体を揺らすような車の微振動とエンジン音だけがからだを包んでいる。
 髪の先から、戌亥の実家で食べたお好み焼きの匂いが漂い、そういえば珍しくリセッシュしなかったなと、半ば強引に車に押しこんだ丑嶋の、似合わない性急な行動を頭の中で反芻させた。愛車がお好み焼き臭くなる危惧を考える余裕もないのか、あの潔癖の丑嶋が。
 戌亥の実家がある郊外は疾うに背後で、いつの間にか車線は四車線になり、街の灯りが華やかで毒々しいものに変わった頃、赤信号がハマーのゆく手を阻んだ。緩やかなブレイキングで、シートに身を沈めていた私に無駄なGが掛からないようにしてくれる。そんな気遣いを、私は求めていないのだけれど。
「丑嶋の運転、私すき」
 沈黙という半紙に墨を落とすほどの絞ったヴォリウムで私はいう。ほとんど独り言のように、丑嶋に聞こえても聞こえていなくても別に構わないって具合に、だから丑嶋が私のことばをスルーして無言で前だけを見据えていてもまるで気にならなかった。
 横目で彼を見やると、対向車のヘッドライトに僅かに目を細めている丑嶋の横顔がある。私のほうは見ない。声を掛けることもない。
 柄崎の誘いを蹴って「おい、送ってやっから帰ンぞ」と私の二の腕をむんずと掴んだ時の丑嶋の表情が、ちらちらと瞼の裏側で明滅する。古い型の蛍光灯が落とす照明の下、冷たい瞳で私を睨んだ。その表情が無理やりにこしらえたものであることは明白で、私は黙って箸を置いて席を立った。それ以外にできることがまるで思いつかなくて、くちの中の紅生姜をごくんと飲みこんで戌亥のおかあさんに「ごちそーさま」と笑いかけて店を出た。
 それから二十分ほどの沈黙を、ふたりきりで共有している。
 信号が青に変わり、ハマーがエンジンを吹かして走りだした。あと十五分もあれば私の家に着く。私を置いて、丑嶋もまた自分の家に帰る。
「……丑嶋ァ」
 こんどは彼に向けて、彼の耳に届くようにすこし大きめの声でもって名を呼んだ。ちら、と横目で私を見、「ぁンだよ」と素っ気なく返事をする。
「一人で帰りたくないンなら、すなおにそー言いいなよ」
 彼が、ずっと竹本について考えていることはわかりきっていた。柄崎と加納がえらい目に遭い、自身も相当に危ない情況に陥り、挙げ句の果てに幼馴染みに地獄行きの切符を渡した。その切符は往復切符のつもりだろうが、そんなことはあまりにも淡く儚い希望に過ぎず、そして竹本が往復切符を使うことは、きっとない。
 丑嶋は無言で舌打ちをして、それから細いため息を吐いた。ウィンカーが点灯し、車線が第一車線に変更される。
「ちょっと寄り道すンぞ」
 いいよ、と私は呟いた。つき合うから、あんたのやり切れなさに。どこに行くのか知らんけど。どこに行きたいのかわからんけど。――でもそれは、丑嶋だってきっとおなじだ。




 ・



 宛てもなく走ったすえに辿り着いた埠頭は、夜の色に満ちていて、灯りといえばハマーのヘッドライトくらいのものだった。やくざが下っ端の一人や二人、バラして棄てた場所だといわれてもちっとも驚かない。
 うねる波が打ち寄せるテトラポッドには菓子の袋やペットボトルや乾涸びたヒトデや海藻が絡まっている。東京の、都会の、暗い海。
 埠頭の先にしゃがみこんで波を見つめる私の背後で、丑嶋は煙草に火をつけた。ジッポーの擦る音、煙草の先端が燃える微かな音、煙を吸いこむ音。波音を縫ってすべてが私の耳に届く。元来、私は目も耳もよいが、ここまで鮮明に諸々の音を聞きとれるということは、私もそれなりに神経が立っていて、それを自覚した途端にドッと疲労が押し寄せてきた。
 両肩が重く、背中もだるい。かつて親しかった友達に地獄行きの切符を渡したのは、何も丑嶋一人ではない。私もだし、柄崎も、加納もだ。だがそれを後悔していないし、後悔してはいけないこともわかっている。竹本は借りた金を返さなかった。だから契約違反の罰を受けた。私たちは私たちの仕事をした。それだけのことである。
 ポケットに片手を突っこんで、暗い空に向かって煙を吐き出す丑嶋の、胡乱な目つきに胸を痛めている自分がいることを私は自覚していた。彼は心底疲労している、当り前のことだけれど。
 竹本絡みの一件のさなか、彼は相変わらず冷静に仕事をしていた。仲間を助けたし、金も回収した。発端である鍔戸たちもシメた。ぐちゃぐちゃに絡まった糸を丁寧に丁寧にほどき、一本の糸に戻した。神経を極限まで研ぎ澄ませて、崩れそうな精神を自分のちからだけで支えながら。
 ブルゾンのポケットに手を入れ煙草を取り出したが、最後の一本を戌亥の実家で吸ってしまったことを思いだす。
「一本頂戴」
 丑嶋に近づいて手を差し出すと、「もう切れた」と言って、咥えていた煙草を私の唇に挟めた。フィルター部分が丑嶋の唾液でほんのりと湿っている。珍しい、と私は思った。いつもは切らさないようにしているのに。
「コンビニ寄りゃァよかったな」
 口振りとは裏腹に、さほど気にしていない様子でぼやいて丑嶋はハマーのヘッドに腰を押しつける。
 私の普段吸う煙草より幾分か強い丑嶋の煙草は、容赦なく咽を刺し、けれどそこそこに美味しい。ハッカの入っていない煙草の煙は、重たく、私の肺を押し潰す。
 ――男、って感じだ。
 丑嶋は紛れもなく男だし、どう見たって男だし、小学生の頃から知っているけれどあの頃からずっと、変わらずに男だ。
 無駄なものは持ちたがらず、質のよい車や食事や清潔なへやを好む。何があっても冷静に、淡々と、仕事をこなす。私の今まで出逢ってきたどの男より、彼は男で、そういうところに惹かれて仕方がない。
 高級なアメ車も、単なるステイタスではなく、彼の好みとこだわりが行きついた結果なのだろうと、丑嶋がからだを凭せ掛けているハマーの、重厚なボンネットを見据える。
「かおるちゃん」
 煙を吐き出しながら、久しぶりに、むかしの呼び方で彼を呼んでみる。そういえば竹本は、大人になっても彼を“カオルちゃん”と呼んでいた。最後の最後まで。地獄行きの切符を手渡されたその瞬間ですら。
「ア?」
「不機嫌そうな顔してる」
 私は咥えていた煙草を彼の唇に近づけて、ふっとまなじりを下げた。「……まあ、いつもそーだけど。いつもより、なんか」。私の差し出した煙草を何のためらいも見せずに咥えてくれる丑嶋を、アアすきだ、と、心底思った。愛しい、可愛い、かおるちゃん。就業時間は疾うに過ぎているし、社長と社員という間柄は今は消滅している。むかしを知っている幼馴染み同士、それに名前なんてないかもしれないが、私たちの関係に、名前なんていらない。
「ヨケーなお世話だよ」
「じゃ、なンで私を連れてきたのさ」
 私があんたにヨケーな世話をすることなんてあんたの予想の範囲内でしょーが。反駁すると、丑嶋は私を見据えて、ため息と煙を同時に吐き出す。
「……なんとなく」
 不機嫌に寄せられた眉根の、その下の切れ長の目の奥で、ことばにならない声を上げている誰かが見えた。私は煙草を持っている丑嶋の右手を掴み、ちからの限り握りしめた。「なンだよ」と低い声が咽の奥から洩れ聞こえたが、抵抗はしなかった。煙草を咥えさせて、空いた指に自分の指を絡め、ぎゅうと握る。節ばった硬い手は私の手には収まりきれない。
「ごめんね」
 と、私は言った。無意識のうちのことばだった。「ごめんね、私なンにもしてやれないや」。
 慰めになるのならこんな身体いくらでもくれてやると思っているが、丑嶋がそれをけっして享受しないことはわかりきっているから、くちにも出さない。
 波音と都会の夜に押し潰されてしまいそうだった。ひと気のない埠頭は、行き止まり、という印象しか与えなくて、無意識のうちにここに車を走らせていた丑嶋のこころを想うとひどくかなしかった。
 はァーっと頭上に丑嶋の長いため息が降って、次いで握られていないほうの手のひらが私の頭にぽん、と載せられる。いつの間にか煙草は足もとに落ちていて、燻る先端の一点がまるで蛍のようだ。丑嶋の靴がそれを潰すより先に私のブーツが動いて煙草を踏みつける。
「なンで泣いてンの?」
「……泣いてない、し」
「いや、泣いてンだろ」
 私は、泣いてなどいなかった。ただ、泣きたい気持ちだけが存在した。泣きたいのに涙が出ないというのは、排泄が上手くいかない時とおなじくしてひどく苦しいものだ。けれど、丑嶋もまたおなじくるしみを感じているのだと思うと、すこしばかり安心をする。安心をして、目頭が熱くなる。――それでも、涙はついぞ出なかった。
 ぽんぽん、と頭を撫でる丑嶋の手のひらが大きく、優しいことが憎らしい。私は自分の無力さに、このまま海に飛びこんで死にたかったのに。
「もう、帰っか」
 煙草もねェーし。寒ィし。
 潮風が頬を撫ぜていく。丑嶋の提案にうん、と従順に頷き、私はハマーの助手席に乗りこむ。「おい」。運転席に坐りベルトを締め、丑嶋が声を掛けるのに顔を向けると、肩を引かれた。かさついた唇が私の唇に触れる。あたたかく、思ったよりもやわらかい丑嶋の唇は、一瞬の間に離れ、私はただただ茫然とするしかなかった。
「……悪ィ」
 感情の読み取れない口調で言い、丑嶋はハマーのエンジンを掛ける。すぐに前方を向いてしまったせいで、表情もわからない。
「狡いよ、かおるちゃん」
 車は澱みない動きで発進し、私はシートに深く沈んで呟いた。そーいうのは、狡いよ。なンでキスなんかすンの。心中で巡ることばをくちには出さず、来た時とおなじ窓枠に肘を載せて頬杖をついた体勢で窓の向こうを眺めやった。
「べつに、なンも要らねェから」
「え?」
 ステアリングを握りながら、丑嶋がぼそっという。
「さっき。お前なんか言ってただろ。なンもできないとか、なんとか」
「ああ――、」
 思えば、結構恥ずかしいことを言ってしまったなと頬が熱くなる。けれど、本音には違いなかった。
「なンも要らねェ」
 赤信号に捕まる。緩いGが掛かる。私は虚ろな視線を泳がせて、丑嶋にフォーカスを合わせる。その時、彼の顔がふっと持ち上がり、手のひらが顔を覆った。
「……かおるちゃん?」
 さきほどのキスとおなじくらいに、あまりに一瞬のできごとだった。思わず声を掛けた次の瞬間には丑嶋はもう顔を前方に向けて、真っすぐに進行方向を睨んでいた。
 信号が青に変わり、ハマーは再びその重たい身体を滑らせる。丑嶋も私も、やはりくちを閉ざして、きっと私の家に着くまでこのままだ。ふたりきりの空間に満ちた沈黙のまにまに、誤魔化しようのないかなしみが滲んでいる。
 丑嶋を巣食うかなしみのひとはしを、それでも私は、掴んで離すつもりはない。



 初出:2016年3月25日