もし僕が男だったらためらわず凭れた君の肩であろうか/松野志保 


 西の反対は東だから、オレらは今東の方角に向かって自転車を漕いでいる。正確にはチャリを漕いでるのはオレで、チャリの持ち主のはオレの後ろに座ってオレの背中に背中を預けているのだが。
 西日がたっぷりとふり注ぐ十一月の夕がた。オレらの姿は日を受けて、地面に黒い影となって落ちている。
「疲れない? 代わろうか」
「ア?」
 学校を出てから今までずっと無言だったが、こちらを振り向かないで言った。
 気がつけば季節は進んで、冬に入ろうとしていた。それでも今日はまだ暖かいほうらしい。上着を羽織るほどではないけど、ベストを仕込まないと寒くてやってられない。それでも体を動かせば汗は滲んで、ハンドルを握り締めた両手もじっとりと汗ばんでいて気持ち悪かった。
 いーよ、とオレはこたえた。
「べつに疲れてねえし」
「あ、そう」
 の声はフラットで、いつもと変わらない気がする。でもそれはオレが勝手に思ってるだけで、ほんとのところはわからない。めちゃくちゃ傷ついてるかもしれねえし、なンにも感じてないかもしれない。の考えてることはだいたいいつもわからない。わりと長いつき合いになると思うけど、オレはちゃんとこいつのことをわかってやれているんだろうか。
 
 大概、オレは間の悪い男だと思う。聞き耳立ててバレるのがデフォルトになってる気がする。弐番隊ウチにタケミっちを入れたときもそうだったし、今回もそうだ。
 ぱっちん――風船の弾けるみたいな音がして、ついで「だいっ嫌い!」という女子の声。オレは昼メシを食う場所を探して校舎裏を歩いていた。そしたら聞こえてきたのだ、風船の弾ける音が。
 校舎裏なんて都合のいい、漫画みてーなシチュエーションだけど、そこにいたのは見慣れた背中と、顔は知ってるていどの女子が一人。見慣れた背中はのものだとすぐにわかった。顔の知ってるほうの女子が拳を握りしめて体を震わせていた。めちゃくちゃおっかねえ顔をして、を睨んでいた。
「アンタなんかだいっ嫌い」
「マジで嫌い。きもい」
「頭おかしいんじゃないの?」
「二度と私の視界に入ってこないでよ」
「死んで、頼むから」
 そこまで言うか、っていうくらいの罵詈雑言をに投げつけて、女子は向こう側へ走っていった。その場に残されたは俯いたまま、表情は見えない。華奢な肩や、制服のシャツから覗く白い手首がみょうに目について、オレは一瞬視線を外した。
「なに見てるの」
 ふいにがくちを開き、でもそれがオレに向けられた言葉とは思わず、ポカンとする。「三ツ谷」。はそう言ってふり返った。透きとおった瞳が真っすぐにオレを射抜いた。
「え、あー……」
 気づかれてたとか恥ずかしすぎるしダサすぎる。これでも東卍のイチ隊長かよ。
「盗み見なんて行儀悪いよ」
「いや……べつに盗み見るつもりなんてなかったんだけどよ」
 ふう、と息をついて、はオレのほうへと向かってくる。その頬がかすかに赤くなっていて、そうか、さっきの風船の破裂音みたいのは頬を張られた音だったのか、とわかった。
「情けないとこ見られた」
 そうしてはオレの横を通りすぎていく。反射的に、オレはの腕を掴んでいた。
「なにがあった?」
 なんとなく想像はできた。けど、のくちからちゃんと話を聞きたかった。こいつはほんとうに、自分のことをなんにも話さねぇから。
 の目がオレの目を見つめて、その透明な瞳にオレの顔が映ってる。こいつはいつもこんなふうなきれいな目でオレを見た。誰にたいしてもそう、こいつの目は濁らない。どんなにつらいことがあっても、悲しい思いをしても、こいつの目はいつまで経ってもきれいなまんまだ。
「それ、言わなきゃダメなこと?」
 わかってるんでしょ、とが言うのに頷いて、
「でもちゃんと聞きたい。おまえのくちから」
 の眉がかすかに動いて、不快そうな表情をつくった。お節介なのは重々承知してる、そういう性格だから、オレは。
 の腕を離すと、彼女はため息をついて、
「フラれたの」
 と、言った。
「今の子に告白して、フラれちゃった」
 そうか、とオレは言った。それ以上の言葉がどこにも見つからなかった。
「……ずっと好きだったんだけどな」
 の呟きはほんとうに小さくて、か細かった。
「……とりあえずなんか、メシ、くわね?」
 食ってないンだろ? オレは手にぶら下げてた巾着を持ち上げてアオイに見せた。きみは弁当作る不良なんだね、といつだかに笑われた、その手作り弁当。
 はしばらく黙ってオレと、巾着を交互に見た。そしてほんの少しだけくちびるの端を持ち上げて笑った。
 
 同じアパートの隣室同士で、オレは母子家庭、は父子家庭。同じ敷地内に暮らして、学区も同じ、家庭環境も似てるという点でオレとは自然と親しくなった。最初はゴミ出しの時に顔を合わせて挨拶するていどだったけど、学校で話をするようになり、タイミングが合えば一緒に帰って、ときどき公園に寄り道をしたりもした(オレもも、さっさと帰って家事をしなければならなかったから、時間にして十分くらいのものだったけど)。
 がオレにその話をしてくれたのは、小学校六年生に上がったばかりのころだ。もうオレは一端の不良ぶっていたけど、はなにも変わらず接してくれていた。モヒカンにドラゴン刺青スミを見ても、「絵心あるね」と笑っただけだった。(褒めるところが独特すぎる)
 いつもみたいに一緒に帰ってる途中、公園に寄り道をして、並んでブランコを漕いでるときだった。
「好きな子ができたんだ」
 はさらりとそう言った。
「え、マジ?」
 の冷静な声にたいしてオレの応答はひどくガキっぽくて、思い返すと恥ずかしくなる。
 うん、とは頷いた。
「でもね、わたしの恋は絶対に叶わないんだよ」
 あのときのオレはなにも知らないただのガキで、の苦しみもかなしみもなに一つ理解してやれてなかった。その後悔は中三になった今でもひきずっていて、だからオレはずっと、から目を離せない。こいつの心を、ちゃんと理解してやりたいと思うのだった。
 でも同時に、の告白を聞いて知ったこと。それは、オレの恋も絶対に、永遠に叶わないってことだ。

 ペダルを漕ぐたびにキイキイと音を鳴らす年季の入った自転車。背中にわずかに感じるの体温。徒歩圏内にあるのに、中学に上がってこいつはチャリ通に変えた。激安のスーパーが駅の裏手にできたから、売り出しの日に学校帰りに行かれるように、との理由で。
 自転車が揺れると、の背中がオレの背中に触れたり触れなかったりする。背中合わせの状態で荷台に座っているは、さっきからあまりしゃべらない。もともと多弁ではないけど、きょうはしゃべる気が起きないようすだった。
「凹んでんの?」
 息継ぎのあい間に問いかけてみた。んー、と息を洩らしつつ、は言った。「まあ、まあまあ」。
「なんだよ、まあまあって」
 オレは苦笑する。
 人通りの多い商店街を抜けると、あとは道なりに真っすぐ進むだけだ。ペダルを漕ぐ脚の力をゆるめて、軽い傾斜に委ねてみる。少しずつ、息がととのってくる。
「うまく言えねーけど……」
 こういうときの慰めの言葉をオレは知らない。なにを言ってもまちがいな気がするし、薄っぺらな感じがする。実際、そうなんだろうなとも思う。失恋した幼馴染にかけてやる言葉を持ち合わせいないというのは、自分がいかに無力かを思い知らされてるようで、しんどかった。
「うまく言えねーけどさ、今度はきっとうまくいくって」
 うん、とが頷くのを感じる。なんてぺらぺらな慰めなんだろう。うまく言えねーなら最初はなっからなにも言わないほうがマシだ。
「……ごめん」
「ううん」
 は首を振った。
「ありがとう、三ツ谷」
 ガキのころは"タカちゃん"と呼んでくれていたは、いつの間にかオレを"三ツ谷"と呼ぶようになっていた。がオレを苗字で呼ぶたび、胸の奥がちくりと痛んだ。女々しいけど、もう一回、"タカちゃん"って呼んでもらいたかった。でもこの先、がオレをで呼ぶことはないのだろう。
 オレはの恋愛対象から最初から逸脱していた。アオイは、女子に恋をする。今までも、これからも。
「大嫌いって、言われちゃった」
 こぼすように、が言った。
「あの子、わたしのこと、大嫌いだって」
「あれは言い過ぎだろ。ひでえって」
 女子の放った暴言を思い返して、腹が立ってくる。でもは笑いながら、
「わたしっていつも嫌われるんだ。前に告白したときもそうだった」
 前?
「前、って?」
「小学生のころ、好きだった子。卒業式の日に告白した」
 気持ち悪い、って言われた。だい嫌いって。の口調は淡々としていた。
 知らなかった。卒業式の日も、親の来ていないオレらは二人で一緒に帰ったのに。こいつはいつもと変わらない顔で、いつもと変わらない調子で、晩メシの話なんかをしていた。
「知らねーぞ、オレぁそんな話」
「だって、言ってないから」
「なんで言わねんだよ」
「言ってどうなるの?」
 言われて、どきりとした。視線を動かして、背後のを見やった。もオレのことを見ていた。透明な、真っすぐな瞳で。
 一瞬だけ交わった視線は、オレのほうが先に逸らした。
「……そりゃ、そーだけどさ」
 でもなんか、せめてそういうことがあったって言ってくれたらよかった。かけてやる言葉なんか持っちゃいないけど、かなしいとか苦しいとか、そういう気持ちをオレにぶつけてくれよ。
「三ツ谷はさ」はオレに視線を向けたまま言った。「きみはいいやつだから、みんなから好かれるんだよね」
「きみのコト嫌いな奴なんているのかな」と、は続けた。
「オレなんて恨まれまくり憎まれまくりだろうよ。いちおー東卍の弐番隊隊長ハってんだぞ」
 喧嘩が日常茶飯事で、他所よそのチームにとっちゃオレなんてただの外敵の一人だ。嫌われてるなんてレベルじゃない。聞いてまわったわけじゃねーからわかんねーけど。
 ――そう、それに。
 舗装されていない凸凹の多い道を走り、ブレーキをかけながらゆるい坂道を下っていく。キイィ、と耳障りな音が響いた。帰ったら油差してやんねーとな、と、工具箱の中に潤滑油が残っていたか、記憶を探った。
「オレぁ、おまえに嫌われなけりゃそれでいーンだよ」
 気づいたら、ほんとうの本音をはじめてくちにしていた。誰に嫌われようがどうでもいい。けど、唯一、にだけは嫌われたくなかった。
 に嫌われて、こうしてふつうにしゃべったり、一緒に帰ったりすることができなくなったら。そう考えるだけで背筋が冷えて、おそろしかった。
 彼氏彼女の関係にはなれないとわかっていても、オレはずっとのことが好きだった。守ってやりたいと思ったし、ぜんぶをわかってやりてえと思った。真っすぐな瞳がたとえオレではない誰に向けられていても、オレはこいつが好きで好きで仕方なかった。
 好きになってくれなくていい、ただ、嫌いにならないでほしい。そんなガキみたいに甘ったれた願望がオレの中にあるなんて、オレ自身がいちばん驚いていた。
 茜色がオレらの影を長く伸ばしていた。ゆらゆらと揺れる影が一つになったり二つに分かれたりする。
 はずっと黙ったまま、空のどこか一点を見つめていた。
「三ツ谷」
 とん。と、アオイの後頭部がオレの肩甲骨に触れた。頭を凭れたのだと理解するのに数秒かかった。ふり返ることができなかった。皮ふを通ってじわじわと、の体温を感じる。この重たさはこいつの脳みその重たさなんだろうかとか、ばかみてえなことを考えて。自分が動揺していることに、動揺する。
「わたしはきみを嫌いになんてならない」
 しゃべると、の声が背中じゅうに反響した。うん、と、喉の奥でオレはこたえる。
「嫌いになる理由がない」
「……うん」
 だから、とは呼吸を継いで、言った。「わたしのことも、嫌いにならないで」。
 キキッ――ブレーキを握りしめて、自転車を急停止させた。突然の反動にの体が揺れて、オレは慌てて腕を伸ばした。
 バランスを崩しかけた体を支えるだけのつもりだった。ぐら、と揺れたの体が、オレの腕の中におさまっていた。抱きしめるみたいなかたちで、一瞬、何が何だかわからず、数秒のあいだそうしていた。
「……びっくりした」
 しばらくしてオレの腕の中で、がくちを開いた。「なにが起きたのかと思った」
「あ、わ、悪ぃ!」
 体を離そうとして、の手がオレのシャツをしっかりと握りしめているのに気がついた。
「……?」
「タカちゃん、」
 の声が震えていた。あ。と、思ったときには、大粒の涙がの頬を落ちていっていた。
「……ごめっ、ごめん……っ」
 必死で押し殺そうとする涙は、でも意思に反してつぎつぎとあふれてきて、止まらないようだった。ひっ、ひっ、と喉で苦しげな呼吸をくり返す。殺すことを諦めた声は痛々しく響いて、オレの胸を締めつけた。
「嫌いにならないで」
 は震える声で言った。お願いだから、きみだけはわたしを嫌わないで。
 オレはの頭に手をのせた。髪の毛を梳くように、こいつのどこも傷つけてしまわないように、静かに撫でる。
 沈みかけた夕日が涙に反射してきらきらと光った。オレはそれをきれいだと思い、そしてひどくせつない気持ちになった。
 抱きしめたりしたら、だめなんだろうな。そんなふうな始まり方をオレもこいつも望んではいなくて。そもそもオレらは"始まる"なんてことできないのだから、そんなことしちゃ、だめなんだ。
 ガキみたいに泣きじゃくるを、あやすみたいに頭を撫でてやる。ぼろぼろとこぼれてくる涙を手の甲で拭いながら、必死で泣き止もうとするの姿ははじめて見るものだった。
 こいつはオレのまえでは絶対に泣かなかった。家で、実の父親にさんざん暴力をふるわれて、腕にたくさんの痣をつくって登校してきても。上履きを隠されたりノートを破られたり、クラスメイトたちの陰湿で執拗なイジメに遭っても。
 そういう、一方的にこいつを襲う不幸や暴力にオレがキレて、の父親やクラスメイトに食ってかかったとき、こいつは笑いながら、「いいんだよ、タカちゃん」と言って止めた。「怒ってくれてありがとう」。
「……嫌いになんてなるわけねーだろ」
 髪の毛を撫でながらオレは言った。がさっきそう言ってくれたのと同じように。
「嫌いになる理由がねえ」
 は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上げた。涙に覆われた目は、やはり変わらず透明に光って、とてもきれいだった。
「……ほんと、に?」
「当たりめーだろ」
「これから先も、ずっと先も、嫌わないでいてくれる?」
 ああ、とオレは頷いた。約束だよ。そう言って涙を拭うがひどく幼く見えた。オレは髪を撫でていた手を止め、小指を差し出した。
「ゆびきり」
 妹たちとも、なにかたいせつな約束をするときは必ず、こうしてゆびきりをした。一種の儀式でもあった。ずっ、と洟を啜って、は右手の小指をオレの小指に絡めた。
「ゆびきりげんまん」
「うそついたらはりせんぼん」
「の、ま、す」
 ふたりで歌って結んだゆびをふる。これってけっこう怖ぇ歌詞だよな、針飲ますンだぜと言うと、ふふ、と笑っても頷いた。
 いつの間にかあたりはすっかり日が落ちて、夕闇が足もとを浸していた。帰らなきゃ。ぽつん、とが言って、そうだなあ、とオレもこたえた。
 サドルにしっかりと跨って、も後ろに乗っていることを確認して、オレはまたペダルを漕ぎ始める。
 涙の痕を何度も手の甲で擦りながら、泣いた事実を消そうとしてるに、そのままでいいよ、と声をかける。
「べつに泣いたってよくね? オレのまえくらいは」
 おまえが泣きたいときに泣ける場所とこなんてないンだろ。だったらオレのまえくらい、わんわんガキみてーに泣いてほしい。
 オレはおまえをなにがあっても嫌わないし、なにがあっても守りたい。この先もずっと、オレはおまえのことが好きだから。
 冬も間近な空気は乾燥していて、の流した涙もその痕も、きっとすぐに乾くんだろう。音を鳴らして吹く風が頬を滑っていく。一秒一秒、涙を乾かす。
 相変わらずのチャリはボロで調子が悪く、でもオレらのアパートまであともうほんの少しだった。