名前を呼ばれたとき、咄嗟に、「またか」と思った。わたしがふり返るよりも早く、マイキーはわたしの右肩を引っ掴んで自分の方に顔を向かせ、唇に噛みついた。くちづけなどという甘いものではなく、噛みついた、という表現がいちばんしっくりくる、乱暴なキスだ。こちらを食らい尽くそうとするかのような。
 いつものようにすぐに舌が差しこまれて、咥内を乱暴に犯される。くちゅくちゅといやらしい水音が狭い部屋を満たした。素っ気ないワンルームは7.5畳ほどの広さしかなく、大きな家具といえばベッドくらいでモノは極端に少ない。だから些細な音でもよく響いた。マイキーからこの部屋を与えられたときのことはとうにぼんやりとした記憶に変わってしまった。なんでわたしここにいるんだっけ? 一人でいる時間――それはいちにちのうちの大半を占めていたが――に、ふいにそう思うこともしばしばであった。
 マイキーの指が耳たぶを滑り、くびすじをなぞってゆく。鎖骨に触れる。ワンピースのファスナーを下げられて、胸もとを覆っていたうすい布がはらりと床に落ちた。たいした膨らみもない胸はいかにも貧相だった。が、マイキーは胸の突起を迷わず口に含んだ。そうして、わたしはマイキーにされるがままの存在となる。
 玩具。そんな言葉が頭に浮かんだ。あいしてる、と耳たぶを食みながら低い声でマイキーは囁いた。そんなくるしそうな声で言うなよ、と彼の体を抱きしめる。とても、とてもせつなかった。龍の入れ墨が刻まれたくびすじに、頬を寄せた。とくとくと血液の流れる音がする。マイキーの心臓がしっかりと動いている証拠だった。

 マイキーはわたしを殺したいのかもしれないと、彼とセックスするたびにわたしは思った。うすくて、しかし充分に大きなてのひらが頸にかかり、絞めあげようと力をこめる。わたしはわたしに覆い被さるマイキーを見上げ、光を失くしたような空っぽの黒目を覗きこむ。
 誰かを殺した日、決まって彼はわたしを抱くのだった。彼の目にはなにも映っていないようで、すべてが映っているようにも思えた。見えすぎて、わかりすぎてしまって、それが彼を苛んでいる。わたし越しに、その日殺めた人間の姿を見ている。わたしを通して、潰えた命のひとつひとつを見つめている。

「ケンチン、殺しちゃった」
 幾度か重なってようやくわたしの体を解放したあと。ふたりで並んだベッドの上でぽつりと、マイキーは言った。感情の削ぎ落とされた抑揚のない声だった。
 マイキーの視線は天井に向けられていた。わたしも彼に倣った。姿勢を変えなくとも彼を見つめることはたやすかった(なんせ顔を動かさなくとも、眼球を数センチ動作させればマイキーの横顔にまなざしは至るのだ)が、わたしはそうしなかった。睦み合いたいとも当然ながら思わなかった。すべてが今さらだと、知っていたから。
 電気のついていない天井は、部屋を包む空気は、味気ない。――否、味気ないのはわたし達だ。どうぶつ同士がするような乱暴なセックスをして、するだけして、力尽きて横たわる。わたし達は、愚かだ。
「……そう」
 マイキーの言葉に、わたしは乾いた声を返す。彼が統率している犯罪組織――東京卍會が、少しずつ歪み始めているのにはわたしも気づいていた。そしてそれがマイキーによる古参メンバーの粛清によって加速していることも。
 彼が今日殺したのは、これまで絶対の信頼と友愛を傾けていた龍宮寺堅だった。中学時代のことは、わたしもよく憶えている。ドラケン――皆、彼をそう呼んでいた。親しみと尊敬の念を込めて――はマイキーの心そのものだった。その彼を、マイキーは殺してしまった。
、ごめん」
 マイキーは天井を仰いだ状態で言った。わたしは首を曲げて、彼を見た。ととのった横顔のラインが、淡い闇の中でぼんやりと滲む。
「なんで謝るの?」
 わたしは息をもらす。「わたしに謝られても、ドラケンは帰ってこない」
 後悔してるの、と問う。マイキーは無言だった。目の端に水が膨らんだ、と思ったら、水滴は静かにマイキーの白い頬を滑り落ちた。涙。それは枕カバーを濡らし、しみをつくる。わずかにも声を出さず、彼は泣いた。ただ涙だけをぽろぽろとこぼした。
 わたしは手を伸ばして、マイキーの髪の毛にそっと触れた。今はもう昔のような金髪じゃあなくなったけれど、ストレートに見えて実は癖っ毛で、触るとそのやわらかさが指のひらを伝う。指のあいだをするすると滑り抜けてゆく髪を、何度も、何度も梳いた。それしかできなくなったロボットのようだった。
 体をこちらに向けたマイキーの体を、ゆるい力で抱く。腕の中で小さく身を震わせるマイキーは、巨大犯罪組織の長とは思えないくらい、弱々しかった。彼は、ほんとうは、こんな子なんだとわたしは心の中で思う。わたしの体にしがみつき、胸に顔を沈める。涙が鎖骨のあたりを濡らした。、とマイキーはわたしの名を幾度も呼び、縋るように抱いた。
「そばにいるから」
 マイキーの頭を抱いて、わたしはつぶやく。本音を、彼に伝える。
「わたしはずっとマイキーのそばにいるから」
 いつか、彼はわたしを殺すかもしれない。セックスの時そうするように、首に両手をかけて、力を込めて締め上げる日が来るかもしれない。それでも、その日までは彼のそばにいられる。だから安心して、今は思いきり泣いて。
「オレ、いつかオマエのことも殺すかもしれない」
「うん。それでいいよ」
 マイキーのすきにして、いいよ。
「それであなたが生きられるのなら」
 わたし一人死んだところで、マイキーの希望にはならないとわかっているけれど。それでもわたしは、彼の幸福を願わずにはおれなかった。彼はどうか知らないが、わたしはマイキーを愛していた。愛している人間に、幸せになってほしいと願うのはおかしなことじゃあないはずだ。
 わたしの腕の中で、マイキーは小さくわらった。目を上げて、視線を絡ませる。
「オレら、ほんとうにどうしようもねぇよな」
 うん、とわたしもわらった。そうして近づいてきたマイキーの唇を唇で受けとめ、入ってきた舌を舐め、吸った。
「いいよ。どうしようもねぇまま、生きて死のうよ」
 わたしたち、どうせみんな地獄行き、でしょ? キスを重ねながら、わたしは体が落ちてゆく感覚に襲われる。深いふかいうろの中、闇の中に、とうに足は突っ込んでいた。引き返せない場所まで来ていることもわかっていたし、ふり返ることさえ、もう、ゆるされない。
 マイキーの手が肌を這う。頬を擦り合わせてキスをすれば、塩っからい涙の味がした。これが罰の味か、と、蕩けてゆく頭の中でわたしは、思った。


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