人を殺したあとの鶴蝶の肌は、まるで体の芯が燃えているみたいに熱い。そんな体で抱かれるとたまらなくて、いつもする時より高く大きな声が出てしまう。それでも手荒なことはしないので、わたしはそれをもどかしく思いながらも押しつけてくる彼の熱い肌に肌をあわせる。
鶴蝶は優しい。人を殺した手と同じものとは思えない優しさでもって、彼はわたしを抱く。顔も名前も知らないにんげんの生命を奪った手が、新しい生命をつくる営みを執り行っていると思うと変な興奮があって、わたしの声をいっそう大きくさせた。
もちろんわたし達のあいだに生命が宿ることは決してない。女として生まれたはずのわたしの体には最初から、そのための機能が具っていなかったから。だというのに、鶴蝶はセックスの際は必ずコンドームをつける。そんなのしなくていい、意味ないから、と何度言っても、聞かない。性病を防ぐためだと真面目くさった顔で宣う。セーフティセックスを徹底する姿は、いかにも実直で誠実な彼らしかった。他の女ともそうしているのだろうか? わたし以外の女と――女だけではないかもしれないが――寝る時も、彼は律儀に避妊具をつけるのだろうか。つけるのだろうな。そうして優しく抱くんだろう。とても。わたしと同じように。
弾力のある大きな枕に頭を預け、ぼうっと天井を見上げてわたしは思った。だからなんだ、という気持ちが追従して、自嘲と同時に息を吐く。
「なにか言ったか?」
笑いを拾った鶴蝶が体をこちらに寄せてきた。ぶ厚いマットレスがかすかに揺れる。キングサイズのベッドは大人ふたりが横たわってもまだ十分に余裕があった。わたしに与えられた部屋は、広く、虚無で満たされていて、そして調度品の何もかもが大きかった。ベッドも、ソファも、ダイニング・テーブルも、それを取り囲む椅子も。
一人では持て余すばかりだから、虚無に潰されそうな時わたしは鶴蝶に連絡をする。暇? 突然の電話にも鶴蝶は丁寧に応対する。暇ではないが。たいてい仕事中なので、彼の返事はいつも同じだ。それから続ける。どうした? と。
そうして鶴蝶はわたしの住まうマンションへやってくる。諸々の「仕事」を終えた、その足で。
「なにも言ってない」
わたしはタオルケットを剥き出しの肩まで引き上げて、鶴蝶に背中を向けた。「ちょっと笑っちゃっただけ」
「……そうか」
なぜ笑ったのかを鶴蝶は訊かなかった。わたしが背中を向ける時は、何も話したくない時だと彼は承知していた。だから、余計なことを訊かず、言わず、背後からわたしを抱きしめる。熱かった肌はだいぶん、熱が引いたようだった。それでも汗でしっとりと湿った肌からは、香水――わたしが選んだものだ。彼に似合うと思って、――に混ざっていろいろの香がした。息を吸うと、鶴蝶の匂いで肺が膨らむ。そしてそのずっとずっと奥の方に、今日鶴蝶が殺してきたにんげんの血の匂いが隠れていた。
ここに来る前にシャワーは浴びてきたはずだろうが、血の匂いはすぐには落ちない。
「今日はどうやって殺したの」
遮光カーテンがぴっちりとしめられた部屋は、間接照明のオレンジ色がヴェールのようにうす闇を淡く包んでいる。囁くほどの音量なのに不思議なほど部屋の隅々まで声が響いたので、先ほどまで垂れ流していた喘ぎ声はさぞややかましかったことだろう。
「はそんなこと気にしなくていい」
わたしの髪の毛を梳き、撫でながら、鶴蝶は言った。
「べつに、気にしてない。興味があるだけ」鶴蝶の優しさに甘えて、わたしは憎まれ口を叩く。「あなたがどうやって人を殺すのか、殺しているのか、知りたいだけ」
鶴蝶の仕事について、詳しいことは何も聞かされていない。わたしも彼も反社会組織側の人間で、それなりのことをしているから何を知ったとてすべて、今さら、なのだ。
「ねぇ鶴蝶」
わたしはふり返って鶴蝶の顔を仰ぎ見た。闇に慣れた目にはその精悍な顔立ちと、それぞれで色の異なる双眸がよく見えた。
「なんだ」
「人を殺す時、あなたどんな顔するの」
どうしてか、鶴蝶に優しくされればされるほど、わたしは彼をいじめて、追いつめたくなってしまう。頬に指を添えて、唇を重ねてみる。口の端からかすかにもれた鶴蝶の吐息は、ぬるかった。
「……知らなくていいことだ」
顔を離して、まっすぐに鶴蝶を見つめた。せつなげに、かなしげに、眉間に皺を寄せる鶴蝶が途端に可哀想になる。わたしは腕を伸ばして彼の頭を抱き、自身の胸に寄せた。
「ごめん。……ごめんね」
ほんとうは、あなたのぜんぶを知りたいとわたしは願っている。人を殺める時に歪むだろう顔や、いちにちを生きるたびにすり減ってゆく心。でも銃身を握る手はきっともう震えはしなくて、硝煙の匂いにも、血の匂いにも慣れっこになった。そうして証拠をすべて消し去りその場から消えてゆく。部屋を出、車に乗りこみ、待機していた運転手に一言二言命令する。車は滑らかに深夜の高速道路を走りだす。東京の夜景が前から後ろに流れていって、窓硝子にうつるあなたの顔は、あくまで平静だ。それが、わたしにはとてもかなしい。
「わたし達、こんな大人になるはずじゃなかったね」
かつて養護施設でともにくらした日々の記憶は、遥か遠くにあった。幼なじみのわたしと鶴蝶――そして、数年前に死んでしまったもう一人の年上の幼なじみ――には、もっとべつの未来があったかもしれなかった。でも、たとえどんな未来を選び進んでいたとして、その時を生きるわたしはせつなさに苛まれて泣いているかもしれない。
関東事変と名付けられた抗争によってイザナが死んだ。わたし達はぽつねんと残された。しかしこの生きている未来はどうしようもなく、「今」でしかないのだ。
「イザナのことを言っているのか?」
わたしの背中に腕を回して、鶴蝶は問う。額を彼の鎖骨に押しつけるわたしを柔く抱いて、その逞しい腕が心強くて、同時に強い不安感が襲ってくる。
わたしは鶴蝶の腕の中で、ひとりごとみたいに言った。
「せめて鶴蝶はわたしを置いていかないで」
ひとりにはしないで。と、わたしは懇願した。今はもういない年上の幼なじみの姿がまぶたの裏にちらついて、それはきっと鶴蝶も同じだったのだろう。右手が肩に触れ、優しく上下にさする。汗のひいて乾いた、でも充分にあたたかいてのひらだった。
「わかっている」
少しの逡巡ののち、鶴蝶は頷く。それが決して約束できない約束ということはお互いにわかっていた。いつ、どうなるかなんてわからないのが我々のいる社会だから。もしかしたら明日、死ぬかもしれない。鶴蝶ではなく、わたしのほうが、先に逝くかもしれない。離ればなれに、なってしまうかもしれない。
「オレからも一つ、頼みがあるんだ」
ふいに鶴蝶が言ったので、わたしは目線を持ち上げた。オレンジ色の照明が鶴蝶の輪郭をふちどっていた。
「なに」
「オマエも、無闇に急ぐな」
べつに、急いでないけど。口にするより早く唇を塞がれた。触れるだけのキス、と思ったら舌が差しこまれて、あっというまに咥内が鶴蝶の体温でいっぱいになる。舌先でかき混ぜられ、歯列をなぞられて、唇の端から唾液があふれた。
「……悪い」
リップ音を響かせながら顔を離し、バツの悪そうな表情をこしらえる。わたしは「なぜ謝るの」と笑った。「謝るところじゃ、ないじゃない」。
わたしがこの世界にいるのはわたしの選択で、わたしの意志だ。何も引き摺りこまれたわけではない。だから誰も悪くない。わたしがひとりに耐えられなくて、鶴蝶を追いかけた。ただそれだけのことだ。
「ねぇ。もうわたし以外の女と寝ないでって言ったら、どうする」
うすく笑いを浮かべて訊ねると、鶴蝶はさらに渋い顔をつくって、答えを探すように視線をさ迷わせた。わたしは、ふふ、と笑って、鶴蝶の首に腕を回した。
「うそ。冗談。無理だよね」
ごめんね、と耳もとに囁く。鶴蝶の口から浅いため息がもれるのを聞いた。
わたしは鶴蝶の頭を抱いて目を閉じた。ちかちかと輝く銀色が、まなうらに現れては消え、消えては現れた。イザナだとすぐにわかった。かつて鶴蝶の王であり、そしてわたし達の幼なじみ。年上の男の子だった彼の年齢を、わたし達は越してしまった。十八歳の彼を置き去りにして、いつのまにかわたし達は大人になっていた。イザナに置いていかれたと思っていたのはわたしの身勝手で、置いていったのは、むしろわたしのほうなのかもしれない。
それでも願わずにはいられない。今、肌を重ねている鶴蝶という男の存在が、これからも継続して側にあることを。イザナの影を探しながらどこにも見つけられず、絶望する日々の中で彼だけがわたしを慰めてくれるから。
眠りのふちに立っていた。もうあと一歩というところで現実にとどまっているわたしの背中を、鶴蝶のてのひらがそっと押す。足を踏み出した途端に深く暗い穴の中に意識が落ちてゆく。あたたかいのは、鶴蝶がわたしを抱いてくれているからだ。わたしはわずかな安心と焦燥の混ざり合った複雑なグラデーションをつくる感情の海を、腕を大きく広げて泳いでゆく。
(24.0924)