頬を包みこんだ手は想像どおりに大きく、しかし想定外に熱かった。わたしはそれに驚き、至近距離にある男の顔を見た。知っている顔。知っている男。でも、普段の彼には感じたことのない熱っぽい目に、腹の奥がずくり、と疼く。彼のてのひらと同じくして、わたしの肌もじゅうぶんに熱を帯びていた。この先に待つ行為への期待で、体は、すでに準備を終えたらしかった。
人間とはつくづく、ただの動物なのだと、こういうときに思う。
しっとりと濡れたてのひらがわたしの頬を掴み、くい、と引き寄せられた次の瞬間には唇が触れ合っていた。最初は柔く、優しく皮ふを吸われ、けれどすぐに獣じみた激しさでもって舌を差し入れられる。
雨とはあきらかにちがう水音は淫靡で、耳の奥が甘く痺れた。
「、」
くちづけの
そのとき、「先生」と彼はやわらかい声音でわたしを呼び、深く頭を下げるだろう。そんな真似させるものかと、わたしも彼の――半助の唇に歯を当てた。じゅう、と音を立てて吸いつき、甘く噛みついてさえみせる。運命へのせめてもの抵抗。あるいは、これがわたしの、彼にたいする愛情の証とでもいうように。
ほの暗い木立の中、杉の大木の袂で火照った体を寄せ合う。わたしはこの状況にたまらなく興奮していた。こんなことになることを最初から予想していたわけでは、当然、なかった。なかったが、いつかは彼と、こうなってしまいたいと心のどこかで願っていたのは確かだった。それはそれは、つよい願望であった。
「ふっ、はぁっ、」
息継ぎのたびに喉の奥を滑り落ちる唾液は、混ざり合って、もはやどちらのものかわからない。半助の背中にしがみついて唇を貪るわたしは、はたから見れば欲情しきった狂女そのものだった。それでも、彼を求める気持ちは抑えられなかった。ほんとうは、教師という立場なんて捨ててしまって、ずっと彼が欲しかったのだ。
雨粒が木の葉を叩く音は大きく激しく、四方八方に伸びる冬枯れの枝と雨垂れが、わたしたちの姿を按配よく隠していた。それでなくとも夕刻を過ぎ、日の暮れかけた深い森の中にひと気はない。誰かに見つかる可能性は限りなく低かった。
突然に与えられた二人一組での任務を終え、学園に帰る道すがらである。誘ったのは、わたし、だった。任務の直後――それはたいていにして高揚状態――にはままあることだったが、どうしようもなく体が熱を持ち仕方がなかったのだ。
こんな時、己が人間であること、さらにいえば女であることを心底から憎む。いっそうただの
たまたま組まされた半助――土井先生には申し訳ないと思ったが、試しにそっと触れてみた指先を、彼はゆるい力で握りかえしてくれた。それを、わたしは都合よく是と受け取った。
半助の手首を掴んで、草をかき分け森の奥へと引っ張った。「ちょっと、痛いですよ、先生」。あまりにも強い力だったのらしい。訴えられて、きつく握りしめていた手首を慌てて離す。
半助は苦笑しながらわたしの体に寄り添い、頬を両てのひらで包んだ。想像と違う、熱い、あついてのひらで。
角度を変えて何度も何度も唇を吸われ、飲み下せなかった唾液が顎に伝った。半助の手がわたしのささやかな膨らみを布越しに触れ、包んだ。初めてなわけがないのに、半助の動きは実に緩慢でもどかしかった。ひどく、じれったい。わたしは上目で彼を睨んだ。
「ねぇもっと、ちゃんと触ってください」
半助の手に手を重ねて、小袖のすきまから中へと招き入れる。抵抗なく下りてゆく手に、満足する。
さほど大きくもない胸を揉んだり包んだりしているあいだにわたしの手は半助の下半身に伸びる。当然、最後までするのだと、わたしは勝手に思っていた。ところが下半身の輪郭をなぞろうとした手を、半助の右手が素早く制した。
「待ちなさい」
「……え、」
胸を
「は、どうしたいんだ?」
頭上から降ってくる声は実にやわらかだった。子どもにたずねるような口調がわたしの羞恥心を今さらながら煽った。、と耳もとで囁かれてしまうと、もう、顔を俯けることしかできなくなる。
「このまま最後までしてしまって、そうすれば、満足するかい?」
彼の言葉はやさしかった。しかしそれは、わたしにとって狡く、意地の悪いものにも聞こえた。
「……獣のままでいてくれたらよかったのに」
ぽつん、と呟く。ほんとうに、そうだ。あのまま、本能のまま、動物みたいに貪り合えていたらよかったのだ。
「わたしは、あなたに抱かれたかったのに」
半助の目は、見られなかった。彼はしっかりとわたしを見てくれているのに、わたしはそうはできなかった。顔を隠すようにして、半助の鎖骨に額を押しつける。
やがてわたしはゆるゆると息を吐き出して、唇の端に自嘲の笑みを浮かべた。
「色に溺れるなんて、わたしは教師はおろか、忍び失格ですね」
半助の厚い胸板の弾力をたしかめるように指で撫でさすりながら、続ける。
「つきあわせてしまって、申し訳ありませんでした」
体を、そっと離す。半助はまだわたしをまっすぐに見つめていた。憐れむでも、蔑むでもないおだやかなまなざしだった。まるで学園の忍たまたちに向けるものと変わらない、教師の目。
「鍛錬不足、ですね」
「はい」
わたしはつま先に視線を落とす。日はすっかりと落ちきって、雨があたりの暗闇を絶えず濡らしていた。
あたたかなものが頭のてっぺんに触れた。半助――土井先生の手、だった。大きくて武骨な、男の、てのひらだった。
「私も、一瞬あのまま――獣のままでいたいと思ってしまった」
「……え?」
「とおんなじだよ」
教師も忍びも失格だ。そう言って土井先生は眉を下げた。いつも見せる、少し困ったような笑みだ。彼の前髪から垂れた雨のしずくが、ぽつ、ぽつ、と頬に落ちる。熱がゆっくりと去ってゆくのを感じた。すると、体が急激に冷えてきて、わたしは胸もとを直しながら身震いした。土井先生は額の上に手を翳し、枝のあわいから空を見上げた。
「帰りましょう、“先生”。夜が明けるまでには学園に戻らなければ」
顔を近づけて、土井先生は囁いた。低く甘い声は、しかし子どものわがままを諭すようなやわらかさを孕んでいた。今更になって大人の顔を見せてくるなんて、ずるいと思った。
「はい。“土井先生”」
わたしは唇を尖らしながらも頷いた。常識ある、物わかりのよいまっとうな大人のつもりで。離れがたく、一瞬だけ筒袖の裾を握りしめたが、すぐに離した。木陰から一歩踏み出す。途端に大粒の雨が皮ふを打ちつけ、わたしは天を仰いだ。
全身が濡れるのも構わず、大きく両手を開いて、全身で雨を受け止める。
(25.0113)