自分たちの関係は、喩えれば捨てられた動物どうしが身を寄せ合ってお互いを守っている――そんなようなものだとは考えていた。千冬もあたしも、おなじ類のいきものだ、と。
ときおり見せる千冬のせつなげな表情が、のその考えをより確実なものにさせた。東京卍會という犯罪組織に属しているが、千冬はきっと、根っからの悪党ではない。なにかとてもたいせつなものを守ろうとしている。
千冬自身おそらく、散々悪事を働いてきた。これまでの悪行非道の数々を知らないから、都合よく彼を擁護できるのかもしれない。でも、とは思う。
でも、あの子はいつもひどくさみしそうな目をする。悪党にはとてもできないような目。それはそれはさみしそうな。
握った手の中で、アパートの鍵がつめたかった。千冬がのために借りたアパートは、これまでが暮らしていた繁華な街から遠く離れた住宅街にひっそりと建っている。そんな退屈で平和な街の周辺を、夜のふけたころにふらふらと出歩くのが好きだった。
外出時、自宅に鍵をかける習慣のなかったに、千冬は、頼むから戸締りだけはちゃんとして出てくださいときつく教えた。あと家にいるときは、チェーンも! と。
何度も施錠を忘れて出かけ、そのたび、部屋に訪れた千冬に呆れられた。
今夜は大丈夫、ちゃんと鍵かけた、と、は背中に回した手の中に、鍵がしっかりと存在していることを確認した。キーホルダーについた鈴がちりちりと鳴る。忘れないようにと千冬がつけてくれたものだった。過保護だなあ。そう言って笑うと、千冬は恥ずかしそうにくちびるを尖らせた。
とろとろと夜道を歩く。真冬の夜は凍てつく寒さで、遅い時間のせいもあり歩いている者はしかいなかった。タートルネックにぶ厚いダウンコートを羽織り、ジーンズにスニーカーというラフないでたちで歩く。あてはなかった。ただ歩くことが好きで、歩いているだけだった。
昼間よりも夜が好きで、だから必然的に散歩は夜の時間帯を選ぶ。暑ければとことん薄着で、暑ければ思いきり厚着をして。
千冬が最後にの部屋を訪れてから、二週間が経っていた。その間、メールも電話もしなかった。から連絡をすることもなく、ただ漫然と時間が過ぎた。
歯と歯をぶつけたぶざまなキスが、千冬との最後のキスになるのはいやだな、と思いながら、でもこのまま静かに関係が終わるのかな、とも考えた。そしてそう考えたときに、妙に気持ちがすうすうするのが不思議だった。
最初は、抱けると思われているだけだと思った。いつでも好きなときに抱ける都合のよい女にされたのかと。愛人、セフレ、ってやつ。でも、そんなようすはちっとも見られず、千冬はただ甲斐甲斐しくの世話をするばかりだった。
仕事を失ったに代わって、アパートを借り、家賃を払い、生活する上で発生する公共料金を払った。見返りを求められないのはむしろ苦痛で、何度もそういう雰囲気になるよう仕向けた。半ば襲うような真似もした。でも、どうにもならなかった。ほんとうに、千冬はなにもしてこなかったのだ。
苛立ちと困惑、疑念、それから、諦め。
「……千冬のばーか」
声と息を同時に吐く。吐息はたちまち白く濁った。千冬、と、彼の名をはじめて口にした。ふたりでいても、が千冬を名前で呼ぶことはなかった。ひとりきりで夜道を歩きながら、誰にも聞こえないくらいのちいさな声では「千冬」とつぶやいた。
「なんすか」
闇の中に、聞き慣れた声が響いてはぎょっとした。勢いよく背後をふりかえってみると、最後に会ったときとおなじスーツとコート姿の千冬が、の数歩後ろに立っていた。コートのポケットに両手を突っこみ、寒そうに身をすくめている。
は、とくちびるから息がもれた。
「……なんでいんの?」
千冬は困惑した表情で頬を掻いて、
「なんでって、さんのようす見にきたんすよ」
アパートに行ったのに、いないから。そうつづけて、千冬はに近づいた。あらためて向き合うと、彼はより背が高く、細身ながらしっかりとした体格をしていることがわかった。黒髪が夜闇に溶けかけている。街灯のすくない道で、空に散らばる星がささやかな光源といってよかった。
「このクソ寒い中、散歩っすか」
千冬は呆れたようなほほ笑みを浮かべた。「風邪、ひいちゃいますよ」
「風邪ひいても、キミが看病してくれるから大丈夫でしょ」
ね? 首を傾けて、は千冬を見上げた。千冬の頬と鼻の頭が赤く染まっていた。アパート周辺を、歩いて探しまわったのだろうか。あたしを見つけるために、わざわざ。
「そりゃちゃんと看病しますけど」
「じゃ、安心」
「でももう遅いし、帰りましょ」
千冬はポケットから右手を抜き、に差し出した。とても自然な動きに、はつかのま、戸惑った。
「さん?」
「……ガキじゃないんだから」
右手を見つめて動かないの顔を、千冬は覗きこんだ。つったまなじりが、ねこに似ていた。
は鼻で笑った。
「ほんっと、キミは過保護だね」
差し出された手を握る。冷えきった手は、男のものらしく骨っぽく、皮ふも固い。
「放っとけねぇんすよ、さんは。危なっかしくて」
そうかね、とは笑った。ゆるく握りかえされた手を、自身のダウンのポケットに招く。抵抗なく、千冬の手はすんなりとポケットにおさまった。
「放っとけないからって、知らない女相手にここまでするかな、ふつう」
アパートに戻り、電気ケトルで湯を沸かしながらはぼやいた。キッチンのシンクに腰を預けて、煙草を咥える。換気扇がカラカラと回る音が、狭いキッチンスペースに響いていた。
洗面所で手を洗っていた千冬が戻ってきて、「なんか言いました?」と問うた。は煙草に火をつけた。
「キミがあたしにここまでする理由って、なに」
煙を、細く吐き出す。
「……ここまで、って?」
「部屋借りてやったりさ。こうしてちょくちょく来て、世話焼いてくれる、その理由」
千冬がのために部屋を借り、頻繁にようすを見にくるのを、当初は組織からの命令かとは疑っていた。働き蟻の金づるが逃げていかないための軟禁だと。しかしどうやら、その疑惑はまちがっていたようだった。
千冬はの行動を制限することなく自由にさせ、単に家と生活費を与えているだけで組織との繋がりは完全に絶っていた。
アパートの契約書にあった名義人の名前はの知らないそれだった。千冬はおそらく、すべてを嘘の情報で塗り固めて欺き、を守っている。そう考えた。でも、なんのために?
「ここまでする義理、キミにないでしょう。あたしたち、なんの関係もないじゃない」
問いつめるというより、ずっと疑問に思っていたことをシンプルにくちびるに乗せた。千冬はくちびるをきゅっと結んで、真っすぐな視線をに向けていた。
「関係ない……なんてこと、ないっすよ」
ゆっくりと、千冬は口をひらいた。
「罪滅しのつもり?」
が皮肉の笑みを浮かべて、煙草の煙を吐き出した。千冬は首をふった。
「ちがいます」
ほんとうに、放っとけなくて。千冬は苦しそうにそう言った。
「火事の跡にいたさんを見たとき、なんだかすげー不安になって。胸がざわざわして。放っといたら、どっか消えちまいそうで。
……この人の側にいたい、って、思って」
「あたしのこと、好きなの?」
びくり、と、千冬の肩が動いた。視線がさ迷う。わかりやすい子だな、と思うと、おかしい。こんなんで犯罪組織でやっていけるのかよ、と。
「ごめん。ここまでにしよ」
いじめているような気持ちになって、は灰皿に煙草の先端を押しつけて火を消した。ホールドアップのジェスチャ。「べつに、どうでもいいことだしね」
千冬がに恋心を抱いていようがいまいが、ふたりの関係がこの先、すこしでも変わるとはには思えなかった。
千冬はを抱いたりしない。今までとおなじようにアパートの家賃を払い、公共料金を払い、たまにようすを見に訪れて、セックスまでに至らないガキどうしがするのとおなじようなキスを交わして。
がアパートを引き払いたいといえば、千冬は引き留めないだろう。きっと音もなく手を離す。――にとって、その想像はひどくさみしい気持ちをもたらすのだったが。
湯が沸いた。体をケトルの置かれたシンクに向けて、ふたつのマグカップに粉末のココアを入れた。ケトルを取ろうと腕を伸ばしたときだった。ごく控えめな力で、背後から体を抱かれた。の動きが止まった。
重なった部分から千冬の体温を感じる。その奥に響く、激しい心臓の鼓動も。
「……好きです」
掠れた声と一緒に、熱い息がくびすじにかかった。「さんのこと、好きです」
ケトルに伸ばしかけた手を戻して、は、胸の前に組まれた千冬の手にふれた。
散々キスをしてきたのに、こんなふうに抱きしめられたことは一度もなかった。とくとくとく、と早鐘を打つ心臓の音が、ひどく愛おしく思えた。自分にふれて、こんなに激しく胸を鳴らしてくれることが、うれしかった。
「ありがとう」
は前を見たままほほ笑んだ。
「あたしも、千冬が好きだよ」
「はい」
「ちゃんと、キミに恋してるよ」
「……はい」
抱きしめる腕に、力がこめられる。そこに性の匂いは感じられなくて、は視線を落とした。
シンクには、ふたつのマグカップ。百均でが買ってきた。千冬がいつでも、この部屋でひと息つけるように。
「ココア飲も」
体、冷えてる。が言うと、千冬はすっと腕を離した。途端に冷気が体にまといつく。はい、と千冬は頷いた。
くちづけると、千冬のくちびるは甘ったるい味がした。ココアの味だ。つん、つん、と啄めば、千冬はわずかにくちびるをひらいた。吐息も甘い。すきまから差し入れた舌で、千冬の舌を舐めた。ん、と、喉の奥で千冬が声をもらす。
「処女みたい」
もしかしてキミって童貞? は笑い、水音を立てて口内を貪る。
「……っ、んなわけないっ、しょ……」
息継ぎのあいまに、千冬は濡れた声を発する。「したことくらい、ある」
ぜんぜん好きじゃない人と、だったけど。言いにくそうに、ぼそぼそとつづけた。
「好きじゃなかったんだ」
千冬のはじめてを奪った相手を想像すると、胸の奥がざわついた。
リップ音が部屋に響く。照明はつけっ放しで、お互いの顔がよく見えた。まっ赤に染まっていく千冬の頬が、可愛かった。
「なんていうか、好きって思いたかっただけっていうか」
「ふうん」
「でもぜんぜん、好きになれなくて」
よくある話だ、とは思った。仕事でもプライベートでも、生きるために体をつかってきたにとって、千冬の話は初々しくさえ思えた。
悪戯のつもりで、ズボン越しに千冬の性器にふれた。すなおに硬くなっているそこを撫で、かたちをたしかめる。
「さん、」
もどかしそうに身を捩り、千冬はの手を掴んだ。
「だめですって」
「なんで」
「なんでも、だめです」
自分との約束っす、と千冬は言った。
「さんとは、しない、って。約束したんすよ、自分に」
「だからなんで」
「……たいせつ、だから」
はっ、とは笑った。千冬は不服そうにの目を見つめる。
「ほんとっす」
「バカじゃないの」
「バカでもなんでもいいっす」
「そしたらキミ、このさき一生誰ともセックスできなくない?」
たいせつな人とはできない、なんて、うぶすぎる。クサすぎる。夢見がちがすぎる。
「それでいいっす」
「……わかんない」
は千冬の手を払って頬を掴み、乱暴にくちづけた。舌を押しこんで口蓋を舐め、歯列をなぞった。千冬のもらす苦しげな声が聞こえたが、なにも聞こえないふりをした。
てのひらで千冬の性器を撫で、ベルトに手をかけた。
「ちょ、ちょっと!」
千冬が身を引いた。両手首を掴まれ、を拘束した。
「っ、帰ります、もう!」
「帰さない」
ここにいて。は鋭い声で言った。ほとんど、命令に近かった。千冬はため息をついた。
「さんこそ、なんでそんなにオレと寝たいんすか」
「好きな人とセックスしたいって思うの、べつにふつうのことでしょ」
「しなくたって、好きあってるだけでもいいじゃないすか。キスしたり……」
「あたしにはわかんないよ、そういうの」
体をつかってしか、コミュニケーションを取ってこなかったから。
誰かといるとき、セックスをしないでいるほうが苦しかった。存在価値がないように思えて、仕事でもプライベートでも、求められないことが怖かった。
キスなんかじゃ足りないんだ、もっと求めて、求めて求めて求めてほしい。
の大きな目のふちに、水晶のような水の塊があふれた。それはあっというまに膨らんで、こぼれ落ちていく。涙は静かにの頬を濡らし、顎の先から落ちて服に染みをつくった。
「したいの」
の声はふるえていた。
「してほしいし、してあげたいの」
肩をすぼめて、あふれる涙を止めようとする。それでも涙はつぎつぎとあふれて、止まらない。
千冬はの肩にふれ、引き寄せた。頭を胸に押しつける。Yシャツが涙と洟水で濡れ、しみて、皮ふにあたたかさを感じた。
「……オレ、東卍を変えます」
を抱きしめ、頭を撫でながら千冬はとうとつに言った。え? と、はくぐもった声で聞き返した。
「今の東京卍會は腐りきってる。オレがそれを変える。だから、ぜんぶが終わるまで待っていてもらいたいんす」
「変える……って」
千冬が組織にたいしてなにをするつもりなのか、内部の実情を知らないには想像することもかなわない。唯一わかるのは、その計画がとても危険で、万が一失敗したらおそらく命に関わるだろうということだけだ。
は顔を上げて千冬を見つめた。涙でぼやけた視界に、ほほ笑みを浮かべる千冬がいた。
「ほんというと、めちゃくちゃしてぇんす、オレ」
オレだって、男だから。
脱力した笑顔をつくり、千冬は言った。すこしだけ恥ずかしそうに。
「でもここでさんとしちまったら、ほんとに死ににいく儀式みたいじゃないっすか」
最後になんか、したくないんす、絶対に。千冬はそうつづけた。
「殺されるかもしれないの?」
「わかんねぇ」千冬は首をふった。「でも、覚悟はしてます」
コーヒーショップで、今の東京卍會を憎んでいる、と言った千冬の姿を思いだす。あのときに見せた涙も。
「ガキのころの知りあいに、東卍に潜って情報をいろいろ抜いてきてもらってます。もう、いつでも動けます」
「……なんでわざわざ、そんなことするの」
今のままじゃダメなの、とは言った。千冬は力強く頷いた。そうして、静かに視線をそらした。
「こんなんじゃ恥ずかしくって、場地さんに顔向けできねぇ」
「バジサン?」
「オレの、めちゃくちゃ尊敬してるヒト」
千冬の見せた笑顔はあまりにも幼くて、10歳以上も若い少年のようだった。
さん、と千冬はをあらためて見つめた。
「東卍を変えられたら、バカみてーにいっぱいエッチしましょ?」
涙が膨らんで、あふれた。欲しかった答えを、やっと言ってくれた。はそう思った。
*
カーテンを開けると、窓硝子には結露がたっぷりと張りついていた。芯から冷える明け方だった。寝巻きの上にカーディガンを羽織った状態で、は息を吐く。まだ暖房のつけていない部屋で、吐き出された息が白い。
夜明けにはまだすこし足りない時間だった。ベッドでは千冬が毛布にくるまって、すうすうとおだやかな寝息を立てている。
昨夜はじめて、千冬はの部屋に泊まった。シングルベッドに大人ふたりで横になるのは窮屈だったが、狭いね、そっすね、と笑いあいながら毛布を被る瞬間は幸福だった。シャワーであたためたはずの体はすぐに冷えてしまい、だから身を寄せ合って体温を分けた。千冬はを慈しむように優しく抱きしめた。彼の腕の中で目を瞑ると、これまで味わったことのない安堵をおぼえた。
あたしがずっと求めていたのは、こういうものだったのかもしれない。とろとろとした眠りに落ちてゆくさなか、はそんなことを思った。
「……さん……」
声がして、ベッドを見やった。うす闇の中、千冬の顔の輪郭が淡く滲んでいる。寝呆けているのか、の寝ていた場所を手で探っている。はくすりと笑い、ベッドに近づいた。
「千冬」
名を呼んで、千冬の頭に手を伸ばす。黒髪はなんの抵抗も見せずゆびのあいだをすり抜けていく。髪の毛を梳いて、そのまま輪郭を辿った。頬を撫でる。つめたい頬に、てのひらを添える。千冬がうすく目をひらき、視線を絡ませた。
「さん、」
屈託のない笑みを浮かべて、千冬はの手を両手で包みこんだ。「……手ぇ、つめたいっすね」
掠れた声で言い、てのひらに頬を擦り寄せてくる。
「キミの頬もつめたいよ」
「千冬」
「え?」
千冬はまだ眠りのふちをさ迷っているようすで、の手をしきりに撫でる。
「千冬、って、呼んでください」
昨日みたいに、名前で。
子どものように甘ったるい声がくすぐったかった。は手を彼の好きなようにさせながら、「千冬」と口にした。
「はい」
うれしそうに、千冬が笑う。
「千冬。好きだよ」
ほんとうに、好きなんだよ。
心の中で呟いて、は千冬のくちびるに軽いキスを落とした。ふれるだけのくちづけは、これまででいちばん子どもじみていた。しかし、それで構わないと思った。
「愛してる」
夜明け前の部屋に声が沈んでいく。幸せそうに表情を崩す千冬の頬を撫でながら、愛してる、と、はもう一度だけ呟いた。