いく度試しても千冬にはすこしも美味しいと感じられない煙草の味が、くちびる越しに伝わってくる。彼女の愛飲しているメンソール煙草の、苦味と、すっと鼻を抜けていく匂い。啄むようなキスを二、三度くり返して、互いの体温を交換しあう。その心地好さを、千冬はと出会ってはじめて知った。
のくちびるは薄くて、いつもとてもひんやりとしている。しかし、女性のそれらしくじゅうぶんにやわらかい。そしてつめたさの奥――芯に宿るあたたかさが、日々を生きるほどにささくれていく千冬の気持ちを、いつも優しくときほぐすのだった。
細く目を開ける。と、いつからそうしていたのか、じっと千冬を見つめるの目と視線が絡んだ。わっ、と、びっくりして咄嗟に離れた顔を、思いがけない強さの力で引っ張られる。
は千冬の両頬を掴むと、乱暴にくちびるを押しつけた。歯と歯がぶつかって、かちんっ、と音が鳴る。かすかに走った痛みと驚きとで、千冬の目が大きく、まるくなった。
「、さん……っ」
息継ぎのあいまに、名前を呼ぶ。掠れた声が情けないと思った。千冬のくちびるをの生あたたかい舌が舐め、一瞬のまののち、顔が離れた。
「だめ?」
は、黒目がちの瞳で千冬の目を覗きこんだ。はじめて会ったときから、黒すぎるその瞳が印象的な女性だと思っていた。見つめる相手を吸いこむような、強いまなざし。彼女の視線に射抜かれると、目をそらせなくなってしまう。
千冬も、そうだった。
「……だめ、っすよ」
千冬は低い声で言った。しばらくのあいだ、視線が絡みあう。は目を細めると、やがて小さく息をもらしてほほ笑んだ。
「そう。……残念」
そして、そう言った。さほど残念でもないような調子で。
「かたくなだなあ」
くすくすと笑いながら、は千冬から体を離し、ローテーブルに置いていた煙草の箱を掴んで一本抜き取った。
ジッポーライターの、かちり、という音とともに、ちいさなオレンジ色の炎が煙草の先端に宿る。煙をひとくち吸って、細く吐き出した。彼女の一連の動きには淀みがなく、自分とそう年の変わらないだろうに、なぜかひどく大人びて見えた。
オレだって、もういい年した大人なのに。
千冬はそう思うのだが、どうしてか、自分と彼女とのあいだには目には見えない高い高い壁が立ち塞がっているように思え、そしてに求められるほどにその壁は高く、強固になっていくようだった。
くちづけは、これまでいく度も交わした。舌を差し込んだら驚いて身を引いた千冬のために、恋をおぼえたての者どうしがするようなバードキスを、は彼に注いだ。彼女なりの気遣いと思うと、情けなくもなる。
キスをすればするほど、千冬の心はやわらかくなっていく。そして同時に、自分に課した約束事を破って、なかったことにしてしまいたいと思うのだった。
とは絶対に寝ない、という約束事。
「……ほんとうに、キミ、なんにもしないんだね」
煙草の煙を吐き出しながら、はつぶやいた。ひとりごとのようなささやかな発声だった。千冬は居心地が悪くなって、無言で俯いた。
「オレ、帰りますね」
しばらくの沈黙ののち、千冬はほほ笑みを浮かべて立ち上がった。床に直に置いていたコートを掴み、羽織る。そのとき、スーツの内ポケットの中でスマホが振動した。千冬はスマホを取り出すことなく、ヴァイブレーションの音を響かせたまま、に右手を差し出した。膝を抱えるかたちで座っているは腕を伸ばして、その手に軽くふれた。
いつもの、別れの挨拶だった。
ごく軽く手を握り合う。わずかに、ふれ合う。そこにどんな意味があるのかはわからない。たぶん、意味なんてない。しかしいつのまにか、千冬がの家から出ていくときは、必ず手を差し出す。体温を重ねる行為を、最後まで慈しむように。
の手はしっとりとしていてつめたい。その感触は冬の窓硝子を想起させた。結露のたくさん浮かんだ、凍てついた窓硝子。
「うん。気をつけてね」
は煙草をくちもとに持っていった。立ち上がりはしない。いつも、は座ったまま彼を見送る。1Kの小さなアパートは、リビングからドアを一枚隔ててすぐに廊下があり、その向こうが玄関だ。リビングの床に座った状態でひらひらと手を振るに、玄関で靴を履いた千冬もふりかえって軽く右手を上げてみせた。
「また来ます」
うん、と、は頷いた。「待ってる」。
ドアを開けると、冬のつめたい風が千冬の前髪を嬲った。もうすっかり真冬の寒さだ。千冬は身を竦めて、コートのポケットに両手を突っ込む。アパートの古びた階段を、一歩一歩踏みしめながら降りた。体重を乗せると、わずかに金属どうしの擦れる音がする。
この築古の小さなアパートを、に提供したのは千冬だった。家賃や光熱費も、今は働いていないに変わって千冬が支払っている。
つめたい雨のふる日に出会った彼女が、今は屋根のある安全な場所で暮らしていることに、すこしずつ穏やかになっていく表情を見るたびに、安堵する。
これでよかった、と千冬は思う。暗い夜道を歩きながら。
街灯がアスファルトに淡い影を描いている。
*
事の顛末を、千冬は知っていた。それなのに、雑居ビルからもうもうと立ち昇る煙を見上げて、ただ茫然とするしかできなかった。
組織の経営するビルはすべての階が風俗店で、そのときに店にいた従業員も客もみな、放たれた火から逃れようと出入り口に殺到した。
突然の火災だった。そして、それは必然でもあった。千冬はすべてを知っていた。現場に赴き、ビルが燃えて完全に消失するのを見届けることが、当時の彼に与えられた仕事だったから。
経営不振に陥っていた店のすべてを、組織はひどく雑なやり方で次々と始末していった。跡形もなく消す。指示はそれだけで、あとは下っ端に委ねる。消せるのならば方法はなんでもよかった。放火がいちばん楽できれいなやり方だとされ、そのころは東京のあちらこちらでビル火災が頻発した。そのたび、千冬は現場に行って状況を確認をした。崩れ落ちていくビルを見た。逃げ惑う人々を見た。火傷を負い、泣き喚く女を見た。
無意識のうちにくちびるを噛みしめて、血の味を感じて我に返る日がつづいた。
と出会ったのは、何件めになるかわからないビル火災の跡地でだった。消火が終わり、野次馬が消えていき、あたりに焦げた匂いの漂う焼け跡の前。彼女はそこにいた。
はほとんど下着といってよいようなキャミソールワンピースに裸足という姿で、骨組みだけになったビルをじっと見つめていた。
体じゅうが煤で黒く汚れ、髪の毛先は焦げていた。裸足の足にも傷を負って、枝のような細い腕が寒さにふるえていた。
身を寄せ合って泣いたり慰めあったりしている周囲の風俗嬢たちからは離れたところで、ひとりきりで佇む彼女の姿はあまりにも心もとなかった。
従業員として働いていた彼女たちのこの先を、千冬にはどうすることもできなかった。風俗店経営を任されている組織の担当者が他の店にきちんと斡旋してくれたらまだ幸運だが、明らかに危険でおかしな店に行かされる可能性も十分にある。
厚い雲が空を覆い始め、ぽつり、ぽつり、と大粒の雨が落ちてきた。人々が雨を避けるために散っていくあいだも、は微動だにせずその場に立っていた。
「寒くないすか」
気がついたら、千冬はに話しかけていた。は驚くこともなくゆったりとした動作でふりかえって、千冬の顔をじっと見た。大きな黒目が、千冬を見つめる。射抜くように。
千冬は着ていたコートを脱いで、彼女の細い肩に掛けた。彼女は抵抗することなく受け入れた。
「ねえ」
そして小さな声で問うた。
「たばこ、持ってる?」
と。
「……あ、オレ、吸わなくて」
虚をつかれて千冬は慌てた。つい今し方火災に見舞われた者から、煙草を求められるとは思わなかったのだ。千冬の返答に、は一瞬不快そうに眉間にしわを寄せて、そう、とため息を吐いた。
「しゃあないな」
なにが、かはわからなかった。煙草をもらえなかったこと、火事で店がなくなったこと、その結果仕事を失い、路頭に迷う羽目になったこと――おそらくそれらすべてだろう。突然に降りかかった不幸を、“しゃあない”のひとことで片づけようとする、彼女はとても勇ましく見えた。
千冬に掛けられたコートの襟を引っ張って、胸元で合わせた。華奢なゆびだ、と千冬は思った。ネイルの施されていないつめも、桜貝のように小さくて、すぐに剥がれてしまいそうな。
「あの、コーヒーでも飲みませんか?」
「は?」
咄嗟に、そんなことを言っていた。言ってから、千冬自身が狼狽した。なにを言っているのか、バカじゃないのか、と思った。も呆れた表情をつくった。コイツ、バカなのか? と、その目が訴えていた。どう考えても今の状況にふさわしくなかった。
焼け跡を前に、命からがら火事場から逃げてきたばかりの風俗嬢をお茶に誘うなんて。
に見つめられて、あ、あ、と千冬は吃り、視線をさ迷わせてようやく、「すんません!」と言った。
「すんません、ヘンなこと、突然」
は千冬を、頭のてっぺんから足の先まで見やった。左耳にピアス、刈り上げた襟足に、ゆるい癖っ毛。若い、というより、幼い、という表現のほうが似合う男だ。細身の体にまとったスーツは高価なものだとすぐにわかる、には彼の姿はじつに滑稽に見えた。
気前のいい恰好に釣り合わない、どんよりと曇った顔をしていた。
「いいよ」
「え?」
千冬の目がまるくなった。くちもとにかすかな笑みを滲ませ、は言った。
「いいよ。行こ、お茶しよ」
そのまえにコンビニ寄っていい? 煙草買うわ。
飄々とした口調だった。たった今起こった出来事をすべて、くだらねえ、と一蹴するような強さを孕んだ、小馬鹿にさえするような調子で彼女は言った。
諦観? いや、似てるけど、ちょっとちがう。千冬はコートを羽織ったまま歩きだしたの後ろを、慌てて追いかけた。
彼女には大きいコートを翻して、は歩いていく。裸足の足で、とてもとても勇ましく。
東京卍會は、今や日本中にが知れ渡っている巨大犯罪組織だ。組織の絡んだ痛ましい事件のニュースを聞かない日はない。
千冬がその構成員の一人であり、店が焼かれたのは組織の命令によるものだとが知ったのは、出会ったその日、コーヒーショップでのことだった。
カタギではない雰囲気をまとう千冬と、露出させた肌を男物のコートで覆っているは、店に入った瞬間から周囲の視線を集めた。一瞬だけ千冬と目が合った若いサラリーマンは、慌てて手元のタブレットに視線を落とし、ふたりがテーブル席に着くころには、視線は「見てはいけないもの」に向けられるそれに変わっていた。
「キミがうちの店のバックについてる組織の人なんだ」
なんか、全然意外。
運ばれてきたコーヒーには手をつけず、煙草を咥えては言った。コンビニで煙草と一緒に買った100円ライターで、火をつける。おもちゃのようなちゃちな音とともに炎が吐かれ、煙草の先端を燃やす。着のみ着のままのは当然、財布など持っておらず、代金は千冬が支払った。
「意外……っすかね」
うん、とは頷く。煙がひとすじ、顔の前を昇っていく。
「だってキミ、存在感ふつうだもの」
「ふつう……」
そんなことを言われたのははじめてだった。彼女のいうところの「ふつう」とは何なのか、言及する前にが口をひらいた。
「じゃ放火もキミの仕業?」
千冬は息を呑む。
それはちがう、と首をふろうとして、ふっと視線を逸らした。ちがう? なにが? なにもちがわないだろう、と、胸の内で自答する。
のうすいくちびるから吐き出された煙草の煙が、頬を滑っていった。
「いいよべつに。なんも言わなくて」
すこしの沈黙が落ちたあと、がいった。
だいたいわかるからさ、とつづける。
「組織の細かいことなんかは知らないけど、下は上に逆らえないんでしょ。
そーゆーもんだよね世の中」
しゃあないよ、とは言った。さっきもおなじ言葉を言っていた。“しゃあない”と。
「……しゃあなくない、ですよ」
灰皿に灰が落ちる。ジュッ、と火が事切れる音がする。
「店は守れたはずだった」
声がふるえる。「経営難でお荷物だから消しちまうなんて、めちゃくちゃすぎる」
「でも有無を言わさず店は焼かれた。キミの上に立つ誰かが――誰かは知んないけど――、そう指示した。結果キミは店を守れなかった」
「……っ、……すみません」
千冬が頭を下げる。そのちいさなつむじを見つめ、はまたひとつ、細く煙を吐いた。
「あたしに謝られてもしゃあないよな」
でも、と千冬は言った。
「でも、オレは誰かに謝りてぇ。謝らなきゃ気が済まねぇんだ」
が鼻で笑う。
「キミのその気持ちは信じるけど、でも偽善がすぎない? そういうのは嫌いだ」
わかってる、と千冬は心の中で叫んだ。わかってる、ぜんぶわかってる、なにもかも偽善だって。いくら誰にどのくらい謝ろうと、もう店は戻ってこないし、守ることもできない。
自分が東京卍會に所属していて、構成員であること自体、もうすでに立派な罪なのだ。
涙が音もなく頬を伝って、テーブルにぽつりと落ちる。外でふっている雨より大粒の涙だった。
「……す、……っま、せ……っ、」
乱暴に、手の甲で目元を拭った。それでも涙は止まらなかった。洟を啜り、嗚咽を洩らして千冬は泣いた。
は黙って椅子の背もたれに背中を預け、天井を睨んでいた。
*
コーヒーショップで話したこと以上の組織の仔細を、生活をしていく中で千冬はけっして口にしない。放火の事実についてただの従業員に過ぎないに話したことも、本来であれば処罰の対象となるはずだ。が、店を仕切っているマネージャーあたりに千冬から聞いた旨を話せば、千冬はおそらくただでは済まない。指の一本、二本でも持っていかれるか、それとももっとずっとひどい目に遭わされるか、いや、あるいは――。
まあ、だからというわけでもないけれど。熱いシャワーの湯を顔に当て、は心中でそうつぶやいた。だからというわけでもないけれど、千冬から聞いた話はこれまで誰にも言っていないし、この先誰かに言うつもりもない。たとえ告げ口をしたとして、物事は絶対に好転しないから。そしてそもそもにして、あたしには打ち明け話をできる仲の友人が一人もいない。
コーヒーショップで、千冬は、今の東京卍會を憎んでいると言った。その言葉をは胸の奥に留めた。口外しないことを約束し合ったわけでもないが、どういうわけかそのときの千冬はに心を許しきって、涙まで見せた。たぶん、限界が近いのだろうとは感じた。いろいろな綻びが出始めていて、彼は誰よりも先にそれに気がつきなにかをしようとしている。謀反とか、その類のことを。しかしそれを察知したとて、には自分にできることなどなにもないとわかっていた。「今の東京卍會」と言われても、「昔の」東京卍會を知らないには、比較することさえできない。
コックを捻ってシャワーを止めた。湯気の立ち込める浴室は朝靄に包まれたようだ。
今夜も、あの子はなにもしてこなかった。タオルで髪から順に水滴を拭い、は、先ほどまで部屋にいた千冬の体温を思いだす。
くちびる同士で感じる温度。ふにゃりとやわらかい千冬のくちびるにするキスは、これまで経験してきたどんなキスよりも心地好く、さっきはつい無理をしてしまった。歯と歯がぶつかった感触と、驚いた千冬の表情がおかしくて、思い出し笑いが滲んでしまう。
あの子があたしと寝る日は来るんだろうか、と思う。下着姿で鏡の前に立ってみる。風俗を始めたばかりのころより若干は衰えたが、体型にほとんど変化はない。ツンと上を向いたバストに、くびれた腰。腰から尻にかけては、ゆるやかなカーブを描く。まだまだ現役で風俗嬢としてやっていける自信があった。
あの子が一向にあたしを抱かないのは、あたしが“かわいそう”だからだろうか。そんなふうに思われていたとしたら、心外だ。ひどく。
化粧水をひろげたてのひらで顔を覆い、深い呼吸をする。
今度はいつ来てくれるだろう。
いつのまにか、千冬が来ることを待ち望んでいる気持ちがあることに、はにわかに驚く。