最近は居酒屋でも席で煙草を吸える店がすくない。この店は全席喫煙可だったから気に入っていたのに、いつのまにか喫煙できる場所は出入り口側、トイレのすぐ近くにもうけられた簡易スペースのみになっていて、座席はすべて禁煙になってしまった。
 そのことに気づいたのは三人の会話からなんとか脱け出してトイレに向かったときだった。「喫煙所」とゴシック体で書かれた紙が、質素なクリーム色の壁に貼られている。なんだよ、とわたしは舌打ちをした。前はこんなのなかったじゃんか、と。バカにされている気がして、無性に腹が立った。
 女子トイレから出て、喫煙場所に設えられた長椅子に座った。ポーチから煙草を一本抜き取って咥える。100円ライターで火をつけて、深くふかく煙を吸った。肺が濁るのと同時に、思考がクリアになっていく。そんな錯覚を正当化するように、気持ちを落ちつけたくて立て続けに三口吸った。
 細く長く、煙を吐きだす。ため息の混ざった紫煙は渦を巻きながら、安っぽいオレンジ色の照明がともる天井に昇っていった。
 圭介に好きな子がいるという話は、思いのほか――いや、想像通り、か?――わたしを打ちのめした。話題を切り出した一虎に悪意はないとわかっているけれど、のんきに話す彼にたいして激しい怒りと憎しみが湧きあがり、殴りつけてやりたい衝動に駆られた。
 逃げ出せてよかった、と心から思う。あのまま席にいたら、きっと正気ではいられなかっただろう。そう思うと背筋に寒気が走る。顔馴染みの店員もいるこの店で、喧嘩などして醜態を晒したくはなかった。
 

 吐き出す息はすぐに白く濁り、たちまち散っていく。真冬の夜は凛としたつめたい空気に満たされていた。夜空にはいくつもの星が散らばり、月は、今夜は見えない。
 東京卍會の集会は不定期だったけれど、総長からの招集がかかればざっと100人は集まった。武蔵神社の駐車場が、夜に紛れるような黒い特攻服の集団でいっぱいになる。圭介は壱番隊隊長として、そんな男たちの群れの先頭に立っていた。
 この恋がいつから始まったのか、さだかではない。気がつけば、いつも彼の姿を追いかけているわたしがいた。
 圭介と同じ団地の同じ棟に、わたしは母親とふたりで暮らす鍵っ子だった。知りあったきっかけも忘れてしまった程度には、つきあいはおそらく長い。母親どうしに交流があったとか、そんなものだろうと思う。狭い団地特有のコミュニティが、当時はたしかに存在していた。
ちゃんて、ケースケとつきあってるんだよね?」
 集会のあいだは、男たちから離れた場所にしゃがみこんで、総長であるマイキーにくっついてきたエマとよくおしゃべりをして過ごした。
 この寒空の中、白いひざこぞうをむき出しにして彼女がにわかに問うたのは、集会も終わりに近づいたころだった。
「え?」
 わたしは心臓が激しく打つのを感じながら、いやいや、と首を左右にふる。
「べつにつきあってないけど」
 照れ隠しなどではなく、それは事実だった。わたしと圭介はべつに、そんなんじゃない。たしかにわたしは圭介のことが好きだけれど、これはただのカタオモイに過ぎない。ところがエマは、「えへへー」と可愛らしく笑った。
「照れてるちゃん、かーわいーっ」
「ちょっ、エマ! 離れなっ、恥ずいからっ」
 エマはわたしに抱きついて頬をすりよせた。大きくてやわらかい胸がセーター越しに腕にあたる。さらさらの髪の毛が頬を撫でて、くすぐったかった。
 容姿はもちろん、彼女のこういうすなおな性格が可愛くて、わたしは好きだった。ときどき暴走するけれど、エマはとてもいい子だ。可愛いし、優しいし、わたしが男だったらメロメロだろうな、と思う。わたしにはない華やかさと愛くるしさを、彼女は持っている。
「ってか、照れてるとかじゃないし。ほんとにべつにつきあってないし」
「うそだぁ。だっていっつもケースケといっしょにいるじゃん」
 ゴキにニケツしてさぁ、とエマは唇を尖らせた。
「それはだって、乗っけてくれるっていうから」
 エマだってゼファーに乗っけてもらってんじゃん、と言うわたしをスルーして、
「それにちゃんといるときのケースケ、すっごい優しい顔してるし。ウチはじめて見たときびっくりしたもん」
「……そんなことはないでしょ」
「ううん、ほんとだよ」エマの表情は真剣だった。垂れ目がちの目が、わたしを射抜く。
「あーあ」エマは膝を抱えていた腕に顎の先を沈めて、ため息をついた。「いいなあ。堅ちゃんもそうだったらなあ」
 長いまつ毛が伏せられて、ふっくらとした頬に淡い影が落ちた。
「ドラケンだって優しいじゃん?」
「堅ちゃんは誰にでも優しいもん」
 ウチだけに優しくしてほしいの、と頬を膨らませるエマは、ほんとうに可愛い。
 恋をしている女の子って、どうしてこんなに可愛いんだろう。
「おい、
 斜め上から翳がさして、わたしとエマは揃って顔を上げた。圭介が両手を腰に当て、すぐそばに立っていた。
「あー圭介。終わったん?」
 おう、と圭介は背後に停めたゴキを親指でしめした。
「帰ンぞ。送ってやっから、さっさとケツ乗れ」
「あーい。エマ、じゃあね」
 よいしょと立ち上がって、わたしはスカートの皺を伸ばす。同時にエマも立ち上がった。そして意味ありげににんまりと笑った。
「頑張ってね、ちゃん! 応援してる!」
「いや、だからそんなんじゃないって」
「ケースケ、ちゃん無事に送ってけよ!」
「はぁ? ンでオマエにそんなこと言われなきゃなんねーンだよ」
 圭介は心底不服そうに顔を顰めた。「言われねーでも送ってくワ」と。エマは肘でわたしの腕をつついて耳打ちをした。
「ほらぁ、やっぱ優しいじゃん」
 わたしは頬がふんわりとあたたかくなるのを感じた。
 手渡されたメットを被り、後部座席に跨ると圭介の腰に手をまわした。いつもより心臓の鼓動が早くて、うわ意識しちゃってる、と思うと、恥ずかしさで居た堪れなくなった。
 わたしはさ迷わせていた視線を黒い背中に落として、「いくぞ」と言う圭介の声にもあいまいな返事しかできなかった。

「エマとなに話してたん?」
 街の明かりがすごいスピードで後ろに流れていくのを眺めていたわたしに、圭介がたずねた。排気音と風の音が大きくて、 彼の声はブツブツと千切れて聞こえる。
「なにって?」
 わたしは大声で問い返した。
「だからー、エマとなんか話してたろ。なに」
「……べつに。フツーの、話、だけど」
 まさかあんたの話だよとは言えず、てきとうに返答する。圭介はふん、と鼻を鳴らした。
「アイツからヘンなこと吹きこまれてねーだろな?」
「は? なにそれ。ヘンなことって?」
 圭介の言っている意味はわからなかったけれど、彼はそれ以上なにも言わず、ヘッドライトの照らす前方をまっすぐに睨んだ。
 ゴキのスピードが上がる。わたしは圭介の腰をしがみついて、ふり落とされないように腕に力を入れた。心配しなくても圭介が、わたしにずいぶんと気を遣って運転してくれていることは知っていた。いつもならもっと乱暴にエンジンを吹かすし、音ももっとずっと高く鳴らす。
 風がびゅうびゅうと頬にぶつかり、髪の毛を乱していった。
「圭介、さぁ」
 わたしは彼の耳に口を寄せた。アァ? と視線を寄越した圭介と、すこしの時間、顔が近づく。
「圭介はさぁ」
 好きな子、いるの? たったひとこと、だった。気になって気になってしかたのないそのたったひとつの疑問。言葉にしたら数秒にも満たないひとことが、でもどうしても口にできなかった。
 口の中がからからに乾いて、わたしは唾を飲みこんだ。それと同時に、ずっと聞きたかった問いも、唾液と一緒に喉を滑り落ちてしまった。
「ァんだよ」
 夜道の先に、赤信号の点滅が見える。圭介が視線を前に戻して、ゆっくりとスピードを落としていく。止まるな、とわたしは不埒なことを思った。いつもならそこは無視するだろ。赤信号だからって律儀に止まるな、一応不良だろがテメー。
「……なんでも、ないよ」
 速度が緩やかに落ちる。わたしは俯いて圭介の背中につむじを押しつけた。
 ジャケットに包まれた背中はゴワゴワしていて、でもかすかに圭介の匂いがした。
 

 もしも、あのとき。考えても仕方のない「たられば」が、10年ものあいだ幾度も頭の中に浮かんでは消えていった。もしもあのとき、彼に問うことができていたなら。こんなにも苦しい思いを10年間も、しないで済んだのかもしれない。
 いないともいるとも、彼の口から聞けなかったからこその苦しみ。たとえ問うたとして、彼がまじめに答えるなんて思えないけれど。でもせめて「いねーよ」と、素っ気ない調子で言ってくれていたら、いくらか心は軽くなっていたかもしれない。あるいは「いる」と答えたら、そのときは潔く諦めることが、できていた、かも。
 中学を卒業後も誰とも恋をせずに、圭介だけを見つめて生きた10年間だった。
 どうだったのかな、どうだったんだろう。もう、今さらなにもわかんないよ。わたしはくすんだ天井に煙を吐き出した。足もとに灰がこぼれ落ちる。構わず、ブーツで踏みつけた。後頭部を壁に預けて、煙のゆくえをぼうっと追う。
「なんだ、こんな場所あったんかよ」
 ふいに声がして、わたしは首を傾けた。ジーンズのポケットに両手を突っ込んで、圭介がこちらに向かって廊下を歩いてくる。ブーツのソールが床を叩くコツコツという音が、やけに耳についた。
「喫煙者はつれーなー」圭介は特徴的な八重歯を見せつけて、意地悪そうに笑った。
 わずかな間隔を空けて、わたしの隣に腰を下ろす。華奢な長椅子が、ふたり分の体重を受け止めて苦しげに軋んだ。
「……うるせーよ」
 咥えた煙草の先端が、ジュっと音を立てて燃えた。
「禁煙するとかいって、12時間以上つづいたためしねーよな、オマエ」
「うっさいな。18時間は禁煙できたわ」
「それ禁煙て言わねーよ」
 わざわざこんな澱んだ空気を吸いに、なにしに来たのか。圭介に喫煙の習慣はなかったはずだった。組まれた脚のつま先を、わたしは見つめた。タイトなジーンズに、だいぶ汚れて擦り切れた黒い革のブーツ。細身でスタイルの良い圭介に、シンプルなその装いはとてもよく似合う。
 そのとき唐突に圭介の手が伸びて、わたしの咥えていた煙草をひょいと摘んだ。
「あ」
「体に悪ぃぞ」
 奪った煙草を自身の唇に持っていき、一瞬だけ煙を吸ってみせる。「まずっ」と言って、まだ長い煙草を無遠慮に灰皿に押しつけて消した。
 あっというまの出来事にわたしは驚くことも怒ることもできず、惨めな燃え殻に成り果てた煙草をただぼんやりと見つめるしかなかった。
「……もったいない」
 ようやくそれだけを口にして、わたしはとてもおおきなため息をついた。
「似合わないことしないでよ」
 なにが体に悪いだ、ばかものめ。いつからそんなに健康に気を遣うようになったんだ? 元暴走族の不良のくせに。
「医者になる勉強してっと、自然とそーなってくんだよ」
「医者っていうか、獣医じゃん」
「おなじよーなもんだろ。人だって動物だしよ」
「……」
 なに頭よさそうなこと言ってんだ、と思ったけれど、話しているうちにつっこむ気力はどんどん萎えていって、わたしは長椅子に体育座りのかたちに膝を抱えて座った。腕を組んでそのあいだに顔を沈めると、「アンタなにしにきたの」と、つぶやいた。
「体に悪いよ、ここ」
「なかなか帰ってこねーから、探しにきた」
 圭介は天井を仰ぎながら言った。
「酔っ払ってぶっ倒れてんじゃねーかと思ってよ」
「そんな飲んでないし、心配されるほどやわでもないよ」
「はっ。知ってらぁ」
 横目で見ると、圭介は笑ってわたしを見ていた。まなじりを下げて、八重歯を見せて。その妙に甘ったるくて優しい笑顔が、癪に触った。
 こいつはこいつの好きな誰かにも、おなじような顔で笑ってみせてるんだろうな。
「……圭介さ、好きな子いたんだ。知らなかったよ」
 わたしの声は掠れていた。一生懸命笑いに持っていきたかったけれど、くちの端が震えて笑顔なんてつくれなかった。顔を隠していて正解だ。こんな情けない表情、圭介にだけは見られたくなかった。
「オマエだっているんじゃん。知らなかったワ」
 圭介が言って、わたしは、まぁね、と心の中でこたえた。ああいるよ、いるさ、目の前にいる。隣にいる。アンタのことだよ。こちとら10年ずっと、苦しい苦しいカタオモイだっつーの。
「アンタもカタオモイなんだって?」
 鼻で笑われるかもと思ったけれど、圭介は意外にも、「そー」と肯定した。
「カタオモイ。も、ずーっと」
「そうなんだ。いつから? どんだけ長いの?」
「えーと、10年……? とかになんじゃね。中坊ンときからだし」
「え、一緒。わたしも10年カタオモイ」
 マジ? と、圭介はくつくつ笑った。
「そりゃお互い、つれーなー」
「ほんと、それなー」
 だんだんと、おかしくなってくる。アルコールはさっぱり回ってこなくて、頭は異様にクリアで、圭介とは腕がふれあうくらいに近いのに、触ったりすることもなく、お互いの苦しい恋煩いについて話している。
 居酒屋特有のざわめきが、やけに遠くに聞こえた。圭介の声が、いつもよりも近いための錯覚か。
 こんなつらいならさあ、とわたしは言った。
「もう、やめちゃいたいよなあ」
 天井を見上げる。ヤニで黄ばんだ天井がにわかに霞んで、あ、と思ったときには熱い涙があふれ出ていた。涙はするすると、音もなく頬を伝った。
 洟を啜ると、ずずっとみっともない音がして、慌てて顔を膝のあいだに深く埋めた。涙が、ジーンズ越しに膝を濡らした。
 あぁあっ、とわたしは乱暴に目もとを拭った。
「あーもう、くそっ! こんなはずじゃなかったのにっ!」
 圭介の前でなんか絶対に泣かないと決めていたのに。こんなに呆気なく涙腺が決壊してしまうなんて、情けなかった。
 あとからあとから涙はあふれて、止まらない。体じゅうの水分がすべて涙に変わったみたいに、おもしろいくらいにつぎつぎと出てくる。
 マスカラもアイシャドウも溶けて滲み、ファンデーションは剥げ落ちて、顔はきっと見るに堪えない惨状となっているだろうけれど、そんなことに構えている余裕などなかった。
 こんなにも好きで、好きで好きでたまらないのに、そして今まさに、隣にその好きな男がいるのに、告白することも触ることもできずに泣いている。あまりに滑稽でバカみたいで、悲劇みたいで喜劇みたいで、なんだか逆に笑えてきた。
「バカみたい」
 ヤケクソのように笑ったわたしの頭に、ふとあたたかな体温と重みを感じた。嗚咽をもらしながら、顔を上げられないでいるわたしをあやすような優しい手つきで、圭介はわたしの頭を撫でた。
「オマエが泣いてンの、はじめて見たワ」
「……見んな。恥ずいから」
「珍しーし、見るだろ、そこは」
「うざ。見んなって」
 圭介はしばらくわたしの頭を撫でたのち、ぽん、ぽん、と数回リズムよく叩いた。そして言った。
「泣くほどつらいんなら、もーオレでよくねぇ?」
「……は?」
 涙で滲んだ視界の端っこに、圭介の顔をうつす。彼はわたしをじっと見ていた。視線が絡んで、わたしは顔を伏せた。髪の毛をかき混ぜるように手を動かして、圭介はつづけた。
「オレに、しとけば? つらいだろ、カタオモイ」
 まじめで、はっきりとした声だった。わたしは洟を啜って、
「アンタ好きな人いるンでしょ」
 と、言った。「だめだよわたしなんかに、浮気しちゃ」
 一途にカタオモイしてればいつか実るよ大丈夫、と、なぜか励ますような言葉が口から出て、自分がおかしかった。なに応援してんだわたし。圭介はため息をついた。
「オマエ」
「なに」
 わたしは顔を上げて、手の甲で顔面を抑えながらこたえた。圭介は、「だからオマエ」とくりかえした。
「なにがよ」
「や、だから。オレの、好きな子。オマエ。
 圭介の言葉が耳に届いた途端、流れていたはずの時間が止まった。はい? 無表情で、わたしは間の抜けた声を発した。圭介の目を見た。わたしの頭を撫でてくれているてのひらのあたたかさが、心地好かった。
 圭介はかたほうの手で自身の長い髪の毛を掻き上げて、呆れたようすで言った。
「いー加減気づけよ、テメー」
 10年以上ずっと一緒にいるのに、どんだけニブいんだよ。バカかよ。気づけって。わかンだろがよ。
 つぎつぎに吐き出される悪態に、次第にわたしは腹が立ってくる。圭介にバカと言われるなんてひどく心外だった。喉を鳴らして唾を飲むとわたしは、
「アンタだってバカじゃん!」
 と、叫んだ。圭介はギョッとして目をまるくさせた。
「わたしのっ わたしの好きな人はアンタなのにっ アンタだってぜんっぜん気づかないじゃん! こっち見ないじゃん!  中学のころからずっとずっと好きだったのにさぁ! いい加減気づいてよぉ!」
 一息に言うと、わたしは子どものように声を上げて泣いた。涙も洟水もあふれるままに、拭うこともせずに、ただ、泣きじゃくった。
 体じゅうの水がぜんぶ出て、干からびてしまったらどうしようなどとありえないことを考える。でも明日の朝は全身むくむな絶対、特に顔。そんな覚悟をしながら、周りの目も憚らずにわんわん泣いた。
 

「おー、やっと戻ってきた。おかえりー」
さん場地さん、遅かったすねぇ」
「ふたりともまだなんかのむー? そろそろ次、行かねえ?」
「ふへへへ〜場地さんいなくてオレさみしかったす〜」
 完全に酔っ払っているらしい千冬が、テーブルに突っ伏した状態で圭介に両手を伸ばした。
「千冬潰れてんじゃん、これでよく二軒め行こうとか言えるな」
「なあ、ふたりっきりでなにしてたん?」
 呆れるわたしに一虎がにたりと笑って問うた。わたしはビールケースに腰を下ろすと、バッグにポーチを押し込んで入れ代わりに財布を取り出した。
「いくらンなった? 割り勘でいーよね」
「おいコラ、シカトすんなよ」
「べつに、ちょっと話してただけだよ」
 店内にかかる流行の音楽に合わせてふにゃふにゃと体を揺らしている千冬は、ほとんど寝ぼけているようすで、
「場地さんとさんて、ホント、仲いいっすよねぇ」
 と、言った。
「もお、ふたりがつきあったらいいんじゃねぇっすかぁ」
 わたしと圭介はそれぞれのグラスに残ったのみものを空にして、千冬の戯言をスルーする。一虎が頬杖をついて「ああそりゃいいわ」と頷いた。
「ふたりともしんどいカタオモイしてるっぽいし。この際もう諦めてもいんじゃね。
 ――っていうか案外、好きなやつってじつはお互いでした〜みたいな落ちだったりしてな」
「昔、そーゆー漫画読みました〜」
「フィクションの世界でよく見るやつ」
 ふたりは顔を見合わせてけたけたと笑った。
 各々の財布から5000円が出され、席で会計を済ませた。面倒だから端数はわたしが払った。わたしたちのいないあいだに千冬と一虎はしこたま飲んでいたようで、すでにひどい酩酊状態だった。
「どーする?」
 暖簾をくぐって店を出ると、わたしは圭介にたずねた。冬の風がコートの裾をはためかせる。気持ちよく酔っているらしい千冬と一虎はなんとも危うい足取りで、しかし二軒めに行く気満々のようだった。肩を組んでふらふらと飲み屋街を歩いていってしまう。その後ろ姿を追うべきか、どうか、判断に迷った。
「オレは帰ンわ」
 眠ぃーし、と圭介はあくびをした。
「え、困る、わたし一人でアイツらの面倒見られないよ」
「オマエも帰ンだよ」
「え?」
 あたりまえのように圭介は言って、戸惑うわたしの手に、ふれた。
 いつもより高い体温に、不覚にもどきりとする。指の先を軽く握られた。皮ふがすこしだけ、汗に湿っていた。
「ほら、帰ンぞ」
「ちょ、ちょっと。千冬たちは?」
 わたしの手を引いて歩き始める圭介に、慌ててついていく。
「酔っ払いは放っとけ」
 脚がもつれそうで、体勢をととのえると自然と圭介と肩が並んだ。手を握られて、反射的に握りかえした。
 頬が熱くなって、コートに包まれた全身も熱くて、せめてマフラーを外したかった。でもここで外したら、ぶざまに赤くなった顔を圭介に晒すこととなる。
 ブーツのヒールでアスファルトの地面を叩く。カツ、コツ、カツッと小気味よい音が、夜のふけた街に響いた。