行きつけの大衆居酒屋は出来上がった人々でごった返していて、案内された席はどう見てもふたりが向かい合うだけで限界の、正方形をしたとてもちいさなテーブル席だった。四人掛けを謳っているようだけれどところどころが錆びたパイプ椅子は二脚しかなく、残りのふたつはビールケースを逆さまにした即席感満載のしろものだった。
「なにこれこんなんあり?」
不満を露わにするわたしをすり抜けて、一虎は、
「オレこっち〜」
と、ずうずうしくもいちばんにパイプ椅子に腰を下ろした。つづいて彼の向かいの椅子に圭介が、そして残されたビールケースの一つに千冬が、それぞれ座った。
「さん、ここ、ここ」
「ちょっと、社長がビールケースってどういうこと!」
当然のように千冬が向かい側のビールケースを指さすので、わたしは思わず叫んでしまった。
「年功序列〜」
「それ網になってっからケツ痛くなんぞ」
一虎と圭介はけらけらと笑う。じつに憎たらしい笑顔だった。
「ちょっと、わたしだってあんたたちと同い年なんだけど?」
「とりあえずビールから揚げポテト注文しよ」
「カラオケみてーなメニューな」
「話聞けよ!」
わたしのことなど華麗に無視してふたりはメニューを覗きこむ。千冬はすっかり呆れた顔で、わたしのコートの裾を引っ張った。
「なに言ってももう聞こえてないっすよ」
「千冬、社員教育なってなさすぎだろ、またつけあがるよ?!」
「これでも一応善処してるっす」
「ああ、もうっ!」
マフラーを外して、ひとテーブルにつきひとつだけ与えられた荷物置きのカゴに無理やり押しこむ。そのカゴもバッグが一つ入ればいっぱいになってしまうため、脱いだコートは膝に掛けるしかなかった。
「30分ごとに席替えね」
わたしは固いビールケースの上に腰を下ろして言った。上面が網になっているせいで、たしかにお尻に痛い。
「合コンじゃねんだから」
頬杖をついた状態で、圭介がわたしを見下ろす。パイプ椅子の脚とビールケースでは高さに頭ひとつ分くらいの高低差があるため、ビールケースに座るとどうしたって視線が低くなる。小バカにされているようで腹が立ち、わたしは圭介の背中を思いきり引っ叩いてやった。
「痛っ! テメェなにすんだよ!」
「ねぇメニューこっちにも見して」
圭介をスルーしてメニューを奪い、見やすいように角度を変えた。とはいえわたしが頼むものはいつも変わらない、とりあえずビールだ。居酒屋ではただ飲めればいい。あとは男どもが注文した小鉢をてきとうにつまめばよかった。
「こら、無視すんなや」
「先に無視したくせになに言ってンの」
「ケツ痛くなんぞって教えてやったろ」
「じゃ席替わってよ」
「おねーさーん、オーダーお願いしまーす」
「ちょっ、一虎くん! オレまだ決めてないっす!」
「千冬ぅ、オマエはいつもおっせーンだよ」
一虎がさっさと店員を呼んでしまい、まだメニューを見ていた千冬は慌てて、じゃあオレもビールで、と言った。年上のダメ社員二人の手綱を握るには、千冬にはまだまだ技術が足りないようだった。そんなところに時間と労力をかけたところで、よい変化があるかどうかはさだかではないけれど。
はぁあ、とため息を吐いて天井を仰ぐ千冬の肩を、ぽん、と叩いてやる。日々の労りと、慰めをこめて。
千冬の経営するペットショップ「×Jランド」は、圭介、一虎、わたしの社員三名と、社長の千冬でまわしている。幼なじみの腐れ縁が揃い、それなりに仲よくやっていると思う。
子どものころからかなりトんでいた圭介と一虎にふり回されている千冬は気の毒に思うけれど、なんだかんだで楽しい職場環境だ。
わたしと圭介と一虎は幼いころから一緒に過ごしていた。そこに千冬が参加したのはわたしたちが中学に上がってからだ。中学時代に一年落第した圭介と同級生の千冬は、だから四人の中でひとつ年が若い。
「圭介、このまえのテスト結局どーだったの?」
お通しのほうれん草の胡麻和えに箸を伸ばして、わたしは圭介に聞いた。彼は現役の、獣医学部の学生でもある。
「なんだよ、母ちゃんみてーなこと言いやがって」
「誰が母ちゃんか。で、どうだったのよ」
テスト期間中、スタッフルームの椅子に険しい顔つきで座り、教科書を睨んでいた姿を思いだす。苦々しい表情をつくって、圭介は運ばれてきたハイボールをぐいと煽った。
「聞かなくてもまあ、なんとなくわかるけど」
「じゃ聞くなよな」
あいかわらず性格悪ぃなオマエは、と言う圭介の脛を、つま先で軽く蹴った。
「場地さん、いい加減早く獣医になってくださいよ。手当付きますんで」
「生意気言うようになったな千冬ぅ〜」
「痛ぇっ!」
圭介に思いきり頭を叩かれて、千冬は肩を竦めた。
「場地〜それパワハラ〜出るとこ出たらクビんなるぜ〜」
「ウッセーな! 教育だよ!」
一虎がビールを一口飲んで、笑う。耳たぶにぶさがった鈴のピアスが、ちりん、と鳴った。
平和だなあ、と、思った。子どものころからずっと一緒で、当時あったさまざまな出来事を共有していて、性格も熟知し合っていて。
そうして大人になってもこんなふうに、バカみたいな他愛のないやりとりができる仲間がいるということは、つくづく有り難いことだった。それは大人にならないとわからなかったことで、仕事終わりにときどきこうして四人で飲みにいくたび、わたしは続いていく平穏な日々に感謝する。
自慢じゃないけれど、わたしは友だちがすくない。現在共に働く三人は中学時代に暴走族をやっていて、夜な夜な行われる集会に冷やかし半分でしょっちゅう顔を出していたら、いつのまにか女子の友だちがいなくなっていた。
でも、さみしいとはちっとも思わなかった。東京卍會――そう、あのときはそう名乗っていた。東京で東卍の存在を知らないチームはなかった――というチームで、特攻服を身にまとった男たちに混ざって夜じゅうバイクを流して遊ぶのはとても刺激的で楽しかった。
わたしはいつも圭介の愛機、ゴキに乗せてもらっていた。改造した後部座席に座り、彼の細い腰に腕を回して背中に頬をくっつけて、夜の街を駆けた。走ると、東京の夜はどんどん後ろに流れた。煌びやかなネオンが頬を照らした。広い国道がいっそう広く見えた。
髪の毛を嬲り額にぶつかる夜風が、それはそれは気持ちよかった。
東京卍會の解散から早いもので11年が経った。当時の仲間たちはみんなカタギになって、それぞれまっとうな道を歩んでいる。
「ところで場地さあ、あの子とはどーなったん?」
一虎の言葉に、ジョッキに口をつけようとしていたわたしの動きが一瞬、止まった。上目遣いで一虎を見ると、彼はニヤニヤとした意地の悪い笑みを浮かべて圭介を見ていた。アァ? と圭介は鬱陶しそうな渋面をつくって、
「べつに。なンもねーよ」
と、素っ気なく言った。
わたしはビールをひと口、飲んだ。独特の苦味が舌の表面をざらりと撫でた。カリカリに焼かれたししゃもを齧りながら、向かいの席で千冬が首を傾けた。
「なんの話っすか? あの子って?」
「コイツ、今カタオモイしてンだって」
「え! えぇえ?!」
千冬は思いきり目を輝かせた。
「おいっ、一虎テメー、余計なこと言ってンじゃねーよ!」
「あはは、いーじゃん。今日は場地の恋バナで盛り上がる会だろ?」
「そんな会ねーワ!」
圭介の拳が一虎の顔面に向かったけれど、一虎はあっさりと避けて、
「ってかさー、カタオモイとかつらくね? いっそさっさと告って玉砕して次いったほうがいーんじゃねぇの」
「一虎くん、意外とまっとうなこと言うんすね」
千冬が感心したようすで言った。
「恋愛相談なら任せとけ」
「任せられるかっ! つぅかなんで玉砕前提なんだよっ」
「場地の恋が実るとは思えないわー」
勝手に盛り上がっていく男三人の会話を、わたしはうわの空で聞いていた。ジョッキはとっくに空になっているのに、おかわりを頼む気になれなかった。ビールの苦味が、まったく美味しいと感じられなかった。
カタオモイ。片想い。片想い? 圭介が? ――へえ、と思った。そうなんだ、知らなかった、そうだったんだ、ぜんぜんわからなかった、へえ、そうか、そんなそぶり見せなかったし、知らない、ああ、そうなんだ、へえ。おなじような、まるで意味のないせりふがくるくると頭を巡る。心臓のあたりが冷えて、ざわつく。
「場地さん、好きな人いたんすね。なんで教えてくんなかったんすかぁ」
っていうかなんで一虎くんは知ってんすか? という千冬の問いかけに、一虎は得意そうに笑った。
「そんなん見てりゃわかるくね? あ、コイツ、恋しちゃってンなーって」
「え! そうなんすか?! オレぜんっぜんわかんなかったっす!」
「仕事中とかときどきぼーっとしてるし」
「そんなんでわかるんすか! 一虎くんすげぇ!」
「あーもーうぜーなオマエら! ガキかよ!」
圭介の頬がほんのりと赤いのは、回ってきたアルコールのせいだろうか。そうであってほしいなと思う自分に、わたしは驚く。
動揺していた。動揺している自分自身に、さらに動揺した。
その場の空気はどんどん熱されて、一虎と圭介と千冬のあいだでくりひろげられる“圭介のカタオモイの話”は面白おかしく膨れ上がっていって、時間が経つごとにわたしの心臓は早鐘を打ち始めて。
耐えきれず、ちょっとお手洗い、と立ちあがろうとしたとき、千冬が「そういえば」とわたしを見た。視線が交わる。わたしは立ち去るタイミングを逃してしまう。
「さんも好きな人いるって言ってましたよね?」
コイツ、とわたしは心中で舌打ちをした。
さんの恋バナも聞きたいっす〜と無邪気に言われてしまっては、わたしはあいまいな苦笑いを浮かべるしかなかった。
「マジ? が好きになるヤツってどんなん?」
一虎は興味津々といったようすで身を乗り出した。わたしはジョッキのふちについた水滴を指のひらで拭った。
「どんなんってなに。ってか千冬、オマエもさあ、余計なことぺらぺらしゃべんなよ」
千冬が酔っていることはわかっていたから、なにを言ってももはや意味はないのだけれど、苦言を呈さずにはいられなかった。
「さんの好きな人のことも、知りたいっす〜」
へらりへらりと笑って、悪びれるふうもなく千冬は言った。
たまたま店でふたりきりになったとき、胸のうちをうっかり千冬にもらしてしまった浅はかさをわたしは激しく後悔した。
それなりに苦しい恋をしていて、誰でもいいから話を聞いてほしかった。そのとき偶然そばにいたのが千冬だった。だから話した。たとえそこにいたのが一虎であっても話したと思う。
好きな人がいるんだよね、と。でもぜんぜん脈ナシっぽくて、そろそろしんどくなってきた、と。
もう10年以上のカタオモイをしていた。幼なじみの彼のバイクに乗せてもらった夜がいつまでもきらきらと眩しくて、目の前から消えない。細い腰に腕を回した。背中に頬をくっつけた。長い黒髪の毛先が顔にあたってくすぐったかった。
ずっと昔、ちいさな子どものころ、たくさん喧嘩をしてたくさん泣かせた。口より先に手が出る彼とはよく殴り合いになったけれど、一応黒帯だったわたしは負けなかった。やがて腕力でかなわないと悟ったころ、口で言い負かすことをおぼえた。
中学、高校と成長するにつれ、次第に喧嘩もしなくなった。同時に、彼を泣かせることはなくなった。そうしていつのまにか、わたしたちは大人になっていた。
彼を想って、今、わたしはときどきひとりで泣く。
わたしは圭介に恋をしていた。